パンと杯
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。 コリントの信徒への手紙一11.23-34

コリント教会では、夜にも集まりが持たれていました。家庭集会のような感じでしょうか。そこでは皆で夕食を共にしていました。今日の愛餐会のようにです。その前後に、今でいう聖餐式を行っていました。
ところが1日が終わった後の集会ですから、集まる人々は仕事の都合でバラバラでした。また教会の中には豊かな者もいれば、貧しい者もいました。そして比較的早く集まることのできた者は、すでに満腹し、酔っている始末でした。他方では遅れて集まった者や、貧しい者は空腹のままでした。今では考えにくいかもしれませんが、このようなものを愛餐、また聖餐と呼べるのだろうか。さらには、仲間どうしの争いもありました。
現在では愛餐会は礼拝とは切り離して行い、礼拝の中では聖餐だけを行っています。それでは聖餐式とは何でしょうか。私たちの教会では毎月第1聖日を中心に行っていますので、誰もが暗記するくらい司式者が読む式文の言葉が頭に入っていることと思います。そこで語られているのが聖餐の意味です。すなわちパンに関しては、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(24節)というもの。つまり主イエスが十字架にかかられる最後の夜に弟子たちと分かち合ったあの食事、その後十字架に向かわれたその姿と死、それらを思い起こすものです。杯については、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」とあります。さらにこう続きます。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。同じ聖礼典でも洗礼は生涯に一度だけですが、聖餐式は毎月、あるいは教会によっては年数回行っているとしても、どちらにおいても主が来られるときまで、行い続けていくものなのです。
そのように主の晩餐はキリストと私たち一人ひとりを強く結びつけていきます。それだけではありません。聖餐式は一人で与るものではありません。体、すなわちキリストの体は一つですが、与る者は多数です。「これは、あなたがたのためのわたしの体である」とあるとおりです。今日の多くの教会は私たちの教会同様、最初からパンを裂いた状態にし、ぶどう酒も小カップに分けていますが、もっとオリジナルに近い状態で聖餐式を行おうとする教会では、一つのパンから分け合ったり、一つのぶどう酒の入れ物から互いに飲み合ったりしています。そこで強調していることは、ただ一つなるキリストの裂かれた体、流された血潮を共に与るという面ではないかと思います。そのように聖餐の恵みに与るということは、キリストと私との一体性を強めるというだけでなく、キリストを中心に兄弟姉妹との交わりをも主にあって固くしていくのです。
何の功績もない者が、そうしたキリストの尊い命に与ることが許されたのですから、その恵みを受けた私たちはその恵みに応えうる者となるよう、それにはどうしたらよいかを思い巡らします。私たちの罪やどこまでも自分勝手の思いに陥る愚かさにもかかわらず、主イエス・キリストはそのような私たちのためにご自身の体を裂かれ、血を流されたことによって神との平和、そして隣人との交わりへと導いてくださったことをいつも覚えていきたいと思います。(高橋牧師記)

