あなたの内に働く神

    「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」。  フィリピの信徒への手紙2.12-18

 フィリピの信徒への手紙は、別名「喜びの手紙」と呼ばれています。それほど喜びに満ちた手紙であり、また実際に喜びという言葉が多く使われています。コンコルダンスで調べてみますと、喜びという言葉が全部で16回出てきます。他の聖書と比べて数そのものも多いのですが、たった4章から成る小さな手紙の中にこれだけ多く用いられている、その割合の多さにも気づかされます。いったいここで語られる喜びとはどのような喜びなのでしょうか。それはニコニコしているような喜びでしょうか。確かなことは、このフィリピの信徒への手紙は獄中書簡と言われているように、使徒パウロが牢に監禁されている状態で書かれた手紙でした。そのような厳しい環境のもと、どのように喜びが生まれるのだろうか。

 それは次の言葉と関係しています。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。そうです。わたしがこのように思う、このように願う、そしてそのように行おうとする。それは自分の意思や願い、自分から出た行動ではなく、神がわたしの内に働いておられることゆえのことなのです。キリストへの信仰は自分から生まれるものではありません。またつくり出すことができるのでもありません。そうではなく神が選んでくださったから、神が召してくださったからなのであり、それゆえに信仰は与えられたのです。それは上からの恵みです。  

 最近わたしが読んだ本で、アメリカのユダヤ教ラビの書いた「私の生きた証はどこにあるのか~大人のための人生論」が印象に残っています。旧約聖書「コヘレトの言葉」を聖書の中の最も変わった(危険な)書物と紹介し、それを軸に書き上げられたものです。そこではオスカー・ワイルドのこんな言葉を記しています。「この世には、二つの悲劇があるだけである。一つは人が望むものを手に入れられない悲劇、もう一つはそれを手に入れた悲劇である」。それをコヘレトの言葉の冒頭にある、「なんという空しさ 何という空しさ、すべては空しい」と関連づけて述べていくのです。

 しかしキリストの恵みに生かされている者は、そのような言い方をいたしません。自分が望むものを手に入れられなくとも、また望むものを手に入れることができたとしても、それは悲劇、空しさではなく、満たされたこととして受け取ることができるからです。それはパウロの現在の境遇で言うならば、獄に捕らわれた状態であっても、反対に自由な身であってもということでしょう。またわたしたちの生活にあてはめて言うならば、健康なときであっても病気がちの調子が悪いときでも、あるいは老境にあるときでも若いときであっても、それでキリストの恵みが増えたり少なくなったりするのではなく、いつも満たされていることに変わりないということです。外見の変化によって貧しくなったり、豊かに感じたりというようなものではないのです。

 喜び、それはこの手紙のみならず、福音そのものの本質を言い表しています。わたしたちの心の深いところに与えられたこの喜びは、他の何ものによっても左右されることなく、奪い去ることもできません。なぜならそれはわたしたち自身のものではなく、上から、キリストの恵みによって与えられたものだからです。(高橋牧師記)