あなたはメシア

    「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得
    る」。  マタイによる福音書16.13-28

  「あなたはメシア、生ける神の子です」。これはペトロの信仰告白ですが、そこには誤解も含まれていました。イエスがご自分の苦難と死について打ち明けられたときのことです。長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受けて殺され、三日目に復活する語られたとき、ペトロはイエスをいさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。

 「あなたはメシア、生ける神の子」と告白したペトロ、そのメシアとは彼にとってどのような方だったのでしょうか。それは旧約以来待望されてきたダビデのように、栄光ある王国を築き上げることのできる人でした。祭司長たちにかしずかれることはあって、決して彼らから苦しみを受ける方はありませんでした。それゆえペトロにイエスは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのでした。

 そこでイエスが言われたのが上記の言葉です。ここには二つの命が語られています。捨てるべき命と、もう一つは捨てることによって得られる命です。「あなたはメシア、生ける神の子です」。この告白はまことに正しいものではありますが、わたしにとってどのようなメシアなのかは、その告白の内容が問われるのではないでしょうか。

 14世紀の信仰者トマス・ア・ケンピスの著作に「キリストにならいて」があります。彼は次のように述べています。「天国を愛するものは多いが、十字架を担う者はわずかしかいない。慰めを求める者は多いが、苦難を願う者は少ない。食卓の友は多いが、断食の友は少ない。人はキリストと共に喜ぶことを求めるが、彼のために堪え忍ぼうと志す者は少ない。パンを裂くときまでイエスに従ってゆく者は多いが、受難の杯を飲むところまで従う者は少ない。彼の奇跡を敬う者は多いが、十字架の辱めまでついてゆく者は少ない。多くは不幸が身に起こらない間だけイエスを愛する者、多くは彼から何か慰めを受け取る間だけ彼をたたえるものである」。

 イエスは言われました。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。捨てることによって得る命、また守ることによって失う命、それが十字架で逆転していくのです。「あなたはメシア、生きる神の子です」との信仰告白は、わたしたちをここへ導きます。イエスは「自分の十字架を背負って」と言われました。キリストの十字架ではありません。あなたの十字架です。わたしたちの背負うべき十字架、それは他ならぬわたしに与えられた試練、課題であり、それはまた「人間のことを思う」肉なる思いや自分への執着も含まれるでしょう。それらから逃げず、恐れず、むしろ信仰による自由な態度でそれに向き合い、引き受けることなのではないでしょうか。そのようにわたしたち一人ひとりが「自分の十字架を背負って」、イエスをメシア(キリスト)と告白して歩むとき、そこにこそ揺るぎない岩の上に建てられた教会、すなわち「キリストの教会」がこの世に立ち続けていきます。それは陰府の力をはじめとする世のいかなる力も、決して打ち勝つことができないほどの堅固な教会なのです。(高橋牧師記)