あなたは私の友

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。    ヨハネによる福音書15.12-17

 聖書の中心は愛ですが、そこで言う愛とはどういうものでしょうか。はっきりしているのは、この愛はわたしたちがテレビなどで耳にする「アイラブユー」、つまり好きになるというような心情的なものではないということです。そうではなく、これは神の愛であり、イエスが示されたところの愛なのです。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。イエスがわたしたちに向けられた愛とは、ご自身の命をわたしたちのために献げられた罪の赦しに基づくものです。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために十字架で死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 三浦綾子さんの小説「塩狩峠」を思い出します。わたしが読んだのは20代の頃でした。国鉄職員の主人公が、塩狩峠で列車のブレーキがきかずに暴走したとき、自らが犠牲となってそれを止めて大勢の命を救ったという内容です。彼はドロドロとした家族関係に悩まされながらも、愛と信仰に貫かれた生涯を送ったのでした。大変感動して読んだものでした。

 イエス・キリストはわたしたちが敵であったときにさえ、愛を示し、命を差し出されました。他方わたしたち人間は敵などとんでもなく、友においてさえ、このような愛をあらわすことが何とむずかしいかを知っています。命を捨てるといった具体的なことは言うに及ばず、自分を犠牲にするさまざまなことにも困難を感じるからです。  

 そんな中、次の言葉は何と慰めに満ちたものでしょう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。選びとはただ神からの働きのみによるものです。生来宗教的な雰囲気に包まれている人はいるかもしれません。けれども十字架において示された、人のために自分を与える愛は誰も知りません。わたしたちのこれまでの、そして現在の信仰は、初めから終わりまでこの神の選びと恵みによって成り立っているのであり、決して自分の努力とか意志によるのではありません。

 パウロはダマスコ途上で復活のイエスに出会い、信仰者となりました。しかし彼は「母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と言っています。選びはそれが出来事となってあらわされるまでは隠されています。それでも徹頭徹尾信仰は神から始まることに変わりありません。たとえ信仰者が高齢や病によって、祈りができず、それまでの信仰を思い出せなくなったとしてもです。信仰は人間の思いや努力によるのではなく、神の選びによるものだからです。もし信仰が人間の意志に基づくなら、それは長続きしないでしょう。そうではなく不安定で破れの多いそのようなわたしたちにもかかわらず、神の招きがあり、その選びは決して変わることがないのです。わたしたちの思いは変わることがあっても。そうした不変の神の恵みと十字架に示された愛に押し出されて、互いに愛し合いなさいという戒めをわたしたちは初めて聞くことができるのです。その中でイエスはわたしたちをご自分の友と呼んでくださったのです。(高橋牧師記)