かぐわしい香り

    「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」。 
                                                                    エフェソの信徒への手紙4.25~5.5                                

 以前、ある人から電話をもらいました。「先生、怒りとか憎しみはどのようにコントロールすることができるでしょうか」。もちろんそれは簡単に答えられるようなものではありません。心の中は怒りで荒れている。早くその嵐を治めて、平穏な心を取り戻したい。そうしないと心の問題にとどまらず、健康をはじめ生活全体にまで影響を及ぼしていくからです。

 旧約聖書のアダムの息子たち、カインとアベルを思い浮かべます。神はアベルの献げ物には目を留められたのですが、どういうわけかカインの献げ物には目を留められませんでした。そこでカインは激しく怒って顔を地に伏せました。結局カインは自らの怒りを治めることができず、最悪の行動を引き起こすこととなりました。自分の弟の殺害です(創世記4.6-7)。人間の心の中に生まれる怒り、それが大きくなってくと、目に見えるかたちでさまざまな害を生み出していきます。それは今日のわたしたちの社会についても言えます。  

 怒りの危険性、それゆえにいかに抑えるかは古代社会からのテーマでした。たとえばパウロと同時代のローマの哲学者セネカは、ずばり「怒りについて」という本を著しています。怒りではなく、いかに平穏な心で生きるかという主題で、次のように述べています。「人間が正しい精神状態にあるときほど平和なことがあるだろうか。しかし怒りほど無情なものがあろうか。人間ほど他人に愛情をもったものがあろうか。怒りほど敵意をもったものがあろうか。人間は相互扶助のために生まれたが、怒りは相互破壊のために生まれた。前者は結合を望むが、後者は離反を望む。前者は利することを望むが、後者は害することを望む。前者は見知らぬ人々をも助けようとするが、後者は最愛の者たちをも襲おうする。前者は他人の利益のために自分を消耗させようとさえしているが、後者は他人を追い出すことができるなら、あえて危険を冒そうとしている」。

 「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(26節)。また「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」とも語られています(31節)。人間は人を傷つけたり、傷つけられたりするのですが、またその傷は人によっていやされるものでもあります。今では人間ではなく、ペットが唯一のいやしという人も増えてきました。しかし人間は社会的な存在ですから、人から傷を受けながら、同時に人によって立ち直ることもできます。

 そこで聖書は語ります。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(2節)。「かぐわしい香り」、それは愛であり赦しでもあります。その赦しの愛という泉から水を汲み取るかぎりにおいて、わたしたちを悩ます怒りさえ静めることができ、いやす力となるのではないでしょうか。だから聖書はこう結びます。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(32節)。(高橋牧師記)