これがその人だ
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。 サムエル記上16.1-13

預言者サムエルは、新たな王を立てるためにベツレヘムへ行きました。このとき油を満たした角を携えていくのですが、それは王とする任職に用いるためでした。訪れた場所はエッサイの家です。その家での会食のときです。エッサイは7人の息子を伴ってこの席につきました。サムエルは長男エリアブに目を留めたとき、彼こそ主の前に油注がれる者だと思いました。ところが彼ではありませんでした。主なる神はこう言われます。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。エッサイは次に二男のアビナダブをサムエルの前に出しましたが彼でもありませんでした。三男シャンマでもありません。こうして7人の息子を出したのですが、彼らではなかったのです。そこでサムエルはエッサイに尋ねます。「あなたの息子はこれだけですか」(11節)。エッサイは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と答えます。たぶん年が若すぎたため、この席に呼ばれなかったのでしょう。そこで彼を呼びに行かせます。彼がサムエルの前に連れ出されたとき、主は「立って油を注ぎなさい。これがその人だ」と言われました(12節)。そこでサムエルは油の入った角を取り出し、一同の前で彼に油を注ぎました。その人が2代目の王となるダビデ、やがて救い主キリストの誕生につながっていく人物です。
「容姿や背の高さに目を向けるな。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。預言者サムエルは長男エリアブを見たとき、その外見から彼こそその人だと思いました。しかしそれは間違っていました。外見からの判断に間違いが生じたのです。確かに外見からの判断が正しいこともあるでしょう。けれどもそれと同じくらい人間はその肉眼に頼りすぎて多くの失敗を犯し、どれだけ歴史的に、また個人的にも期待が裏切られてきたことでしょう。
わたしが前に仕えていた三次教会に、全盲の女性がおられました。あるときわたしが歩く足音を聞いて「先生も年を取りましたね」と言われました。40歳そこそこだったと思います。耳を頼りにする人は、声や足音で判断ができます。あの人は今日は元気がない、何か悩みがあるのでは、あるいは体の具合が悪いのではというように。それに対し目の見える人は外見から判断しがちですから、誤る場合がしばしばあります。人は顔や服装などで外見をある程度取り繕うことができますから、その分中身・真相が見えにくくなります。ただ歩き方や声の出し方まで取り繕うことはなかなかせず、ほとんど無防備の状態ですから、目に頼れない人、耳を鋭く傾けている人にはけっこう真相が見えるのでしょう。ヨハネ9章でイエスがファイサイ派の人々に、あなたがたが見えると言い張るところに罪があると言われました。自分は見えるという思いが傲慢や先入観と入り混じって、実は本質を見誤ることが多いことを指摘された箇所です。こうした目だけの見方を止め、むしろ目を閉じて耳で深く聞き取ること、また心の中を見る深い洞察力を信仰にあって育てなくてはなりません。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。どこで、何を見るのか、それを神の視点から教えられるのではないでしょうか。(高橋牧師記)

