それでもなお待ち望む

    「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。   ローマの信徒への手紙8.18-25                                                                         

 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。この「現在の苦しみ」とは何でしょうか。それは個々の場合には、健康の問題、経済的なこと、人間関係の悩み、進路のこと、寂しさ等さまざまです。しかしそれだけではなく、もっと大きく、人間の罪によって神の創造の秩序が崩壊、堕落したことから来たものでもあります。それゆえ被造物全体に苦しみが生じました。この世界には地震や洪水があり、山火事のような自然災害があります。今日の自然災害は文明が発達しているだけに、規模がより大きくなっているように感じます。それだけではありません。人災も後を絶つことがありません。戦争、暴力、また産業の発達により環境破壊も目に余ります。そしてどれが天災で、どこまでが人災なのか、区別がつきにくい面も多々あります。そのような被造世界全体の乱れこそ、ここで言う「現在の苦しみ」といえるのではないでしょうか。  

 それにもかかわらず、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と言います。それならそのような今の苦しみが取るに足りないと思える「将来わたしたちに現されるはずの栄光」とは何でしょうか。それは「滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」ことです。すなわちキリストの十字架による救い、そして復活によってもたらされた命、そして創造の秩序の回復です。このキリストによる救いは既に実現したのですが、同時にまだ完成には至っていません。だから神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいるのです。「心の中でうめきながら待ち望んでいる」。これこそがわたしたちの現在の状態です。「既に救われた者」でありつつ、同時に「いまだ途上にある者」という信仰の二面性です。

 わたしたち信仰者は希望によって生きる者です。しかしその希望は、目に見えるものではありません。一般にわたしたちが希望といっているものは、この世的な見えるもののことについてです。それは自分の努力によってある目的が達成できるとか、事業が成功したといったことに関するものです。けれども目に見えるものは過ぎ去っていきます。それは自分が衰え、そして過ぎ去っていくように、それに基づく希望もいずれはなくなります。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか」と語る通りです。聖書が示す希望とは、そのように目に見えるものではなく、目に見えないものです。なぜなら目に見えないものは永遠に存続するからです。それは人間が生み出すものではなく、神から与えられる希望で、信仰と言い換えてよいと思います。「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」とパウロは語りました。だからこう言うことができるのです。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5.3-5)。このキリストにある希望こそが、いかなる厳しい現実に直面しても、それを乗り越える力となるのです。(高橋牧師記)