ただイエスだけが

「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」  マルコ福音書9.2-13

 イエスは12弟子の内ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて山に登られました。そこでその3人の弟子たちが目にしたのは、イエスの姿が変わったことでした。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります。 

 聖書はさらに続けます。「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」。この光景が何を意味するのか、ペトロたちユダヤの人々には説明がなくてもよく分かることでした。モーセとエリヤ、この2人は旧約時代を代表する人物です。それはイスラエルの歴史の完成と、光栄ある終末時に期待されていたあらゆる希望の完成が、イエスにおいて実現することをあらわしたものであったのです。

 ところがこのような神々しい体験をした弟子たち、その後、辺りを見回すともはやだれも見えませんでした。あの光景はしばらくのことであり、そこにはただイエスが彼らと一緒におられただけでした。しかも彼らが今立っている場所は、これまでと何ら変わらない現実、それは草や木に覆われた石のゴロゴロしている世界でした。そしてその世界に生きるために、彼らは再び山から降りなければなりません。ちょうど教会の礼拝を終えて外に出ていく、そこに帰らなくてはならないのと同様です。それはこの世界がいまだ勝利からほど遠い、栄光からはるかに離れている世界であることを示しています。この地上には今も迷いがあり、憎しみがあり、戦争があるように、罪と死が支配する世界です。わたしたちはその中で悩み、今もさまざまな問題を抱えて苦しんでいます。けれどもそんな荒れた場所ではあっても、イエスだけはそばにいつもおられるのでした。

 わたしたちは家族と同居していようが、なかろうが、一人ということを特に感じることがあります。しかし一人ではあっても、決して一人ぼっちではありません。わたしは今年で牧師になって42年目となります。よくぞまー、ここまで来ることができたという思いです。この間、いろいろな困難に直面しました。その中で孤独はすべての牧師同様、わたしも経験してきました。かつてある教会に赴任したとき、前任の先輩牧師が、「高橋さん、牧師は孤独なのだよ。それに耐えなければならないのだよ」と言われました。はなむけの言葉なのか、脅しなのか。まだ若かった時のことです。教会のいろいろな問題を抱え、個々の信徒の悩みを聞きながら、それを誰にも話さず、ひとりで負うには困難であるにもかかわらず、背負い続けようとする。そのようにして歩んできたつもりですが、それなら牧師の牧師は誰なのか。牧師の妻がその任を担うのは断るでしょう。年を取ってくると、相談する先輩牧師も少なくなってきます。それでもイエスだけはいつも一緒にいてくださいます。

 この世界にイエスが来られ、わたしたちのさまざまな重荷を共に担い、罪の十字架を背負ってくださいました。イエスだけがわたしたちと共に歩いてくださり、わたしたちの傍らに立ってくださっているのです。ここから慰めと勇気を得ながら、この石のごろごろとした世界を歩んでいきたいと願います。(高橋牧師記)