み言葉をください
「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。 ルカによる福音書7.1-10

カファルナウムに駐屯していた百人隊長の部下が重い病で苦しんでいました。そこで彼は早速ユダヤ人の長老たちに、主イエスの所へ行ってもらうように頼みました。彼は異邦人ではありましたが、ユダヤ人と一緒に会堂で礼拝を守っていた人であり、自分の私財をささげて会堂建築に大きく貢献した人として、地元の人々から尊敬を得ていたのです。
そうした思いに応えんとして、イエスは病人の所へ出かけられました。一行がその家にかなり近づいたときのことです。百人隊長は今度は自分の友達をイエスのもとに送って、こう言わせました。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」。自らが一人の罪ある者として神の前に出るのにふさわしくないと思う謙虚な気持ちがこのような言葉となったのでしょう。イエスはその態度、言葉に感心して、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。そこで使いの者たちが家に帰ってみると、病んでいた部下は元気になっていました。
わたしはこの物語から二つの点に気づかされました。一つは信頼と服従です。今日のわたしたちにとって、カルトまがいの宗教とか戦前の日本の軍国主義のように、誤った権威や命令に対する服従がいかに危険であるか、それゆえ絶えず批判的に見ていかなくてはならないのは事実です。ただここで教えられるは、わたしたちの生活に服従(仕える)という側面がなくなってはならないということです。服従という言葉は現在人気がないかもしれません。けれども人気がないからといって、重要でないというわけではありません。誤った権威にではなく、神に信頼をもって従う、仕えるという謙虚な姿勢は信仰に必要だからです。
もう一つは執り成しです。実はこの物語、イエスは百人隊長、また病める彼の部下とは一度も対面していません。頼みに行ったとき、ユダヤ人長老たちがそれを代行しました。家に迎えんとするときには、友人を使いに出しました。結局イエスと直接会ったのは長老たちと友人たちだけだったのです。このように間に立つ人々と彼らの祈りがあったからこそ、百人隊長の祈りが聞かれ、病者がいやされたのでした。
わたしたちは自分のことは熱心に祈ります。しかし家族、友人、教会の友など自分以外の人々への祈りも大切です。もっと大きくはウクライナやミャンマーなど戦いの中にある人々の平和も祈ります。それを可能にするのは、神が執り成す人の祈りを聞いてくださるからです。逆を言えば、現在の自分は自分の祈りによるだけでなく、わたしを知っている人々、また知らないところでいかにいろいろな人が祈ってくれているか、その祈りによって現在の自分があることを忘れないようにしたいと思います。「ただひと言、み言葉をください」。語られた言葉は必ず成るという信仰の確信が、そして多くの人の祈りが、ここで重要なのは言うまでもありません。疑いや不信が宿るところではなく、一途に神を信頼して祈り求めていくとき神の言葉は必ず実現するのです。(高橋牧師記)

