イエスの最期

    「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。  
                                                                   マタイによる福音書27.32-56

 十字架上のイエスに向かって人々はののしりました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。イエスは「他人を救ったのに、自分は救えない」神、と人々から言われたのです。これは世の中と逆の姿です。この世界は自分を救うためには、他人を犠牲にしがちです。自分の国を救うために他国をも。今アメリカのトランプ大統領によるアメリカファースト、そのコロコロと変わる発言に世界は振り回されています。そのように人を蹴落としてでも自分の身を守ろうとするのがこの世界の暗い現実です。そんな中、自分を救わないで人を救う方として、イエスは十字架におられました。自分勝手な利己主義が渦巻くこの世界において、人を生かすために自分を捨て、自分を犠牲にする方としてイエスは今わたしたちの前に立っておられるのです。

 先週の聖書でイエスは仕えること、受けるより与えることが一番重要であると言われました。「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20.25以降)。それが実現したのがここ十字架においてでした。「他人を救ったが、自分は救わない方」として、ご自身を十字架という究極的な姿で示されたのです。  

 さらに「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とイエスは叫ばれました。イエスは群衆からは見捨てられた。愛する弟子たちからも裏切られた。ところがここで大声で叫ばれたのは、神から見捨てられたということであって、人々からということではありません。これはどういう意味なのでしょう。それは本来われわれ人間が抱えているうめきのような言葉であり、絶望の中、どうしようもない光のないところから叫び出る言葉ではないでしょうか。これはひとごとでなく、わたしたち自身の叫びなのです。イエスは本当は群衆や弟子たちから見捨てられたのですが、そのことをひとことも言われず、代わってご自分が神から捨てられたと言われました。それは神の子を見捨て、裏切ったわたしたちが本来受けるべき責め、すなわち神から見捨てられたことを、イエスが代わって受けてくださったのです。従ってイエスの絶望の叫びは人間の叫びだったのです。

 「義人はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない」(ローマ3.10-11)と聖書は語ります。その通りこの世界は黒一色、罪に満ちています。確かに政治家は平和を語る。しかし実際は争いと破壊をもたしている。職場でも学校でも劣悪な環境で働かざるを得ない貧しさがあり、いじめがあり、最悪の場合には自殺がある。そうした世の闇、人間の背き、咎、傷を代わってイエスが負うてくださいました。その罪を神はわたしたちに負わせられたのではなく、神の独り子イエスが代わって担ってくださいました。その罪をイエスが十字架で一人負うてくださったのです。この方以外に救いは、またまことの光は、世界のどこにもありません。(高橋牧師記)