インマヌエル

    「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。  マタイによる福音書1.18-25

 主の天使が夢でヨセフに現れ、次のように言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。さらには、救い主誕生の出来事が、長い旧約の歴史の中で預言されてきたものであったのを告げるのでした。

 この預言はイザヤ書7.14の言葉です。その預言はイエスの誕生を指し示し、今それが実現したというのでした。「その名はインマヌエルと呼ばれる」。意味は「神は我々と共におられる」です。

 マタイによる福音書では、特にこの「神は我々と共におられる」が重要な役割を果たしています。福音書の最後の章(28章)、その結びは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」で閉じられています。福音書の最初であるイエスの誕生(クリスマス)と最後の復活の場面が、同じ「神が我々と共におられる」で括られている、そのような福音書なのです。つまりマタイによる福音書の内容、イエスの地上の生涯、十字架の死、そして復活は、「神は我々と共におられる」(インマヌエル)とはどういうことなのかを表していると言えます。  

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたイエス。この「いつも」とは一つにはいつまでもという時間の長さを示しています。それは人間の歴史のすべてを導いておられるというだけでなく、わたしたち一人ひとりの生涯のすべてをも導いてくださるということです。人は誰にでも青年期があり、そこを経て壮年期、老年期へと移っていきます。そのすべての時において神はいつも共にいてくださるのです。

 「いつもあなたがたと共にいる」とはそうした時間の長さだけでなく、もう一つはどのような境遇においてもということです。誰の生涯にも勢いのある時代があります。それは神を必要としないと思える時かもしれません。他人の助言さえ煩わしく感じる時もあるでしょう。そのように自信に満ちた時代。けれどもそうした時ばかりではありません。反対に人との交わりを求める時、人から声をかけてほしいような時もあるでしょう。自分が周りから十分に理解されていない、むしろ誤解されているように思う時さえも。自分の能力が生かされていないといういらだちの時もあるでしょう。また病気や入院によって、社会から取り残されているように感じる時、そして孤独感に陥る時も。長い人生の中には誰にでもそうしたことがしばしばあるものです。「インマヌエルの主」、けれどもそのような時においても「神は我々と共に」おられます。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。『神は我々と共におられる』という意味である」。この世界には対立、争いがあり、それがさらに激しさを増しています。またわたしたちの日々の生活にも、さまざまな思い煩いがあります。物があふれている。しかし不安も多い。豊かさの中にある貧しさとでもいうのでしょうか。こうした時代にあってクリスマスを祝うということは、それはすなわち「神はわたしたちと共におられる」(インマヌエルの主イエス)をお迎えすることなのです。(高橋牧師記)