エデンの東

「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」  創世記4.1-16

 主なる神が弟アベルの献げ物だけに目を留められたことにより、カインは激しく怒りました。神は言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。カインは怒りに負けました。ある日アベルを野に誘い、そこで弟を殺してしまったのです。結果としてエデンの園からその東、エデンの東に追放されました。
 
 ここにアベルの死が語られています。聖書に出てくる最初の死です。しかも不自然な死として出ています。人間は誰もが必ず死んでいきます。ただ聖書が記す最初の死は、それなりの年齢を重ねた後にベッドで迎える死ではなく、殺人という異常なかたちで起きました。しかも血を分けた兄弟・肉親の間で起きたことに二重の暗い現実を示しています。死とは、単に寿命的、身体的なことだけでなく、それ以上に人間の罪と深く関係していることを表しているのです。

今日でも家族・親族間で起きるさまざまな事件に心を痛めます。なぜ家族なのにそれが起きるのだろうか。いや、家族だからこそ起きるのかもしれない。親と子の間で、祖父母と孫の間や夫婦間で、またカインとアベルのように兄弟間において。それは家族ゆえの責任感が重圧となり、ついに耐え切れなくなってしまうのかもかもしれません。あるいは家族ゆえの甘えが原因かも。そしてついに関係が破綻してしまう。しかもいがみ合いどころか、殺傷事件にまで発展してしまうのは、現代でも多く起こる厳しい現実です。

 「お前は地上をさまよい、さすらう者となった」と神は言われました。そこで神はカインをエデンから追放されます。そこはさすらう者の世界であり、今のわたしたちの世界でもあります。その中でカインは言うのでした。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」。これはわたしたちの言葉でもあります。この世で生きるということは、重荷を負うことであり、健康の心配事、老後のこと、経済的な悩み、そのように数々の重荷を背負って生きるのということでもあります。

それにもかかわらず、ここに一つの慰めがあります。それは神がカインにしるしを付けられたことでした。どのようなしるしなのか。それをどこに付けられたのか。それは書かれていません。ただ目的は書かれています。だれもカインを撃つことのないようにとのしるしです。このようにさまよい、さすらう旅路にあって、神から追放された場所においてさえ、神は一つのしるしを付けて、守ってくださっているのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11.28)とイエスは言われました。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」とカイン同様に苦しむこの世界にあって、そのように言葉をかけてくださり、平安を実現してくださったイエス・キリストがお生まれになるクリスマスを前にしたこの時期、さまざまな苦悩の中にあっても主にある希望を抱いて歩むことがわたしたちには許されているのです。(高橋牧師記)