ナイル川のほとり
「しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、
ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」。 出エジプト記2.1-10

モーセはエジプト王によるユダヤの男児殺害命令が出されていた時に誕生しました。両親はその子の余りのかわいさゆえにしばらく隠しましたが、もはや隠しきれなくなったためパピルスの籠に防水を施して、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。籠はゆっくりいろいろなところにぶつかりながら流れていきました。それでもこの籠がどこへ行き着くのか、誰が拾うのか、あるいは途中で沈んでしまうのか、まさに神に委ねるという思いであったことでしょう。この状況の中で判断した精一杯の行動であったと考えられます。
ある日、エジプト王ファラオの娘が水浴びのため川に下りて来ました。そこでその籠を見つけました。開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で泣いていました。王女はふびんに思い、ヘブライ人の子と分かっていながら、その子を引き取りました。しかもモーセの姉の機転によって、実の母が乳母となり、数年間その母の下で成長していきました。やがて母はモーセを王女のもとへ連れて行き、こうして子どもは王女の子として育っていくことになったのです。
実に数奇な歩みでした。小説「ロビンソン・クルーソー」は、冒険小説として親しまれていますが、同時に信仰的な書物としても味わい深いものがあります。船が遭難して絶海の孤島に流れ着き、そこでたった一人生活を切り開いていきます。クルーソーは一人で生きていくべき生活の工夫をしながらたくましく歩んでいきます。あわせて聖書と向き合いながら自分の内面をも開拓していくのでした。たとえばこの島にたった一人だけ自分が生きていかねばならない惨めな境遇を嘆く自分がいる。反面、他の仲間は皆死んでしまったのに、自分だけが生かされているという現実に神の光を見ます。そして自らにこう言います。「どんな悪いことでも、その中に含まれている良いことを除外して考えてはいけない」。それはまた逆も真であり、「どんな良いことでも、その中に含まれている悪いことを除外して油断してはならない」。そこで分かったことは、どのような痛ましい境涯に置かれたとしても、そこには必ず感謝に値する、心を励ましてくれる何かがあるということでした。それはまさに使徒パウロが語る「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」につらなります(ローマ書8.28)。
こうして危機的な境遇を切り抜けていく幼子モーセは、やがてエジプトの圧政から救い出す指導者となっていきました。それはまたこれから誕生しようとする救い主イエス・キリストを指し示すものでもあります。数奇な生涯は、イエス御自身も同じでした。イエスの時代の権力者はヘロデ王でした。そしてそこでも男児殺害命令が出されました。そうした困難な状況の中、無力な幼子と同じく無力な両親は、神の導きを受けて様々な危機をくぐり抜けていったのです。やがてイエスは単にユダヤの民だけでなく全世界の人々を、その罪の支配から解放していくことになります。このようにやがてお生まれになる神の独り子に心を寄せてわたしたちは歩んでいきます。(高橋牧師記)

