ベトザタの池

  「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くので
     す」。  ヨハネによる福音書5.1-18

 ベトザタとは「憐れみの家」という意味ですが、ここでは憐れみどころか悲惨な光景が繰り広げられていました。ベトザタの池の周りには「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人など」大勢横たわっていました。池に入ると病が癒されるという言い伝えがあったからです。おそらく一定の時間をおいて水が噴出する間欠泉のようなものではないかと言われています。

 そこに38年も病気で苦しんでいる人がいました。イエスがその人に声をかけられたとき、こんなふうに答えています。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。数十分かに1回ずつ水が動くたびに、我先にと誰もが池に飛び込んだのでしょう。ところが38年も寝たきりの病人は、そんなに早く動くことができません。何よりも彼は人の手を借りなければ池に入ることができなかった。そんなことをしているうちに、1年、2年、10年と時は過ぎていきました。

 同病相憐れむということわざがあります。しかしこのベトザタの池ではそうした同情が見られませんでした。人のことより自分がまず助かりたいという雰囲気が支配していたからです。そうした中で最も助けを必要としていた寝たきりの男が最後まで取り残されていきました。  

 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中へ入れてくれる人がいないのです」。この男が悲惨であったのは寝たきりの病であったことはもちろんですが、それだけでなく彼を助けてくれる人が一人もいなかったことでした。現在能登半島における地震被災のため、人々が心を痛めています。そのために交通の不便を押してボランティア活動をする、義援金を送って経済的な援助をする人々等々がいます。わたしたちも献金をしてその働きに参加しています。これらは「わたしを池の中へ入れてくれる人がいないのです」との訴えに少しでも応えようとする働きではないでしょうか。

 イエスが病人ばかりいっぱい集まっていた回廊で、他の誰でもなく、この男に目を注がれました。彼に言われました、「良くなりたいか」。それは「あなたは良くなることができる」という、イエスの憐れみとその男に対する心構えを求めた言い方ではないかと思います。男は「良くなりたいか」という言葉を聞いたとき、何か新鮮な新しい希望の光が心に、そして全身に射し込んだのでした。この言葉によってほとんどあきらめていた自分の病が治るという希望が与えられたのでした。

 「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。すると男はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしました。長年自分の体を横たえていた涙と汗が染み込んだマットレスから離れることができるようになったのです。これはイエスが死の墓からよみがえられたと同じであり、それが病める者のいやしと命になってあらわされたのでした。「あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのも神」(イザヤ書52.12)とあります。そのように遅れている者、生存競争の中ではねられていく者、一番最後になってしまう者に目を注いでくださり、その友となってくださいます。先頭に立ってわたしたちを導かれる主は、実は一番最後にもいてくださったのでした。(高橋牧師記)