一つとなるために
「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように彼らも一つとなるためです」。 ヨハネ福音書17.1-13

大祭司の祈りと言われるこのイエスの祈りには、大きく二つのことが示されています。一つはこの世に残される弟子たちのことを、「あなたがわたしにゆだねられた」、また「わたしに与えてくださって人々」と言われました。それは現在のわたしたちもそこに含まれます。そのように信仰とは神の祈りから始まっているのです。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだと言われる通りです。
わたしたちは毎月第一聖日、その月に誕生日と受洗日を迎える人の祝福を祈っています。教会学校の「こどもさんびか」に誕生日を祝う讃美歌があります。「生まれるまえから 神さまに まもられてきた ともだちの たんじょう日です おめでとう」。「生まれるまえから」愛されてきた。実際、人が信仰を持つのは、20代、70代とさまざまです。しかし神の目からは、善も悪も行う以前、すなわち生まれる前から神に選ばれているのです。
もう一つの大切なことは、わたしたちが一つとなるようにと祈っておられることです。ところが現実の社会はどうでしょう。一つになるどころかバラバラです。社会の分断という言葉がよく言われています。世界の多くの地域では、民族、宗教、言語、その他さまざまな違いを際立たせ、また自己絶対化により、相手を受け入れようとするよりは、自分を押し付けることが全面に出過ぎて今も混乱しています。
先日テレビを見ていましたら、ドイツカトリック教会の大会の様子が報じられていました。そこでの大きな関心事はウクライナ戦争でした。教会の社会的責任はどうあるべきか。もっと宗教界として積極的な発言、行動が必要ではないかといったことが話し合われていました。ウクライナの教会、ロシアの教会、それぞれの礼拝の様子も映し出されていましたが、自分の国の兵士や家族のことは祈るけれど、戦争を止めること、互いに一つになること、平和を実現することの取り組みは聞かれませんでした。
教会はキリストの体であり、一人ひとりはその部分です。ぶどうの木のたとえから教えられますように、わたしたちはイエスというぶどうの木につながる枝でありその実です。そのように信仰者はすでにイエスにつながっているのであり、一人ひとりはイエスにあってすでに一つなのです。それが神の恵みから与えられた現実です。ですから一つになろうとするという以前に、すでに恵みにおいて一つであるとの自覚のもと、互いに受け入れ合い、赦し合っていくのです。一つになるとはそのようなことではないでしょうか。このようにわたしたちはイエスのとりなしの祈りによって守られています。確かにこの世ではさまざまな波風を受けます。イエスが、また弟子たちも悩まされました。けれどもイエスが今もわたしたちのために祈っていてくださる、さらに神に敵対する力に勝利されました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16.33)。わたしたちの生活は、ここに基づいています。(高橋牧師記)

