一粒の麦
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。
ヨハネによる福音書12.20-36

何人かのギリシア人がイエスに面会を求めてやって来ました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」。それを取り次いだ弟子のフィリポとアンデレはイエスに伝えます。そこでイエスが言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。あまりにも有名なこの言葉、誰もが知っているのではないでしょうか。
数年前のことになりますが、わたしはドストエーフスキイの「カラマーゾフの兄弟」を半年かけて読み終えました。20代に一度読んでいて、今回が二度目です。この重厚な書物は相当な根気を要しますので、もう再び読むことはないとの思いで気合を入れて読みました。書物の冒頭には「一粒の麦……」の聖句が掲げられています。そして物語の中に数回この聖句が登場してきます。「一粒の麦の死」とは何だろう、それは誰なのだろうというのが一貫して流れているような気がしました。
イエスが語られた一粒の麦の死は、ご自分の十字架の死を指し示しています。イエスの死は表面的には敗北であり悲惨なものにしか見えませんが、一粒の麦から多くの実が生じるように、彼の死から豊かな実りが生まれるというものです。イエスの死は無駄なものでもなければ敗北でもなく、実はそこから生まれる新しい命の源となったのです。ご自身の十字架の死を一粒の麦の死と捉え、それがまさに栄光の時ともなったのでした。
そこでイエスはご自身の十字架の死を語りつつ、人々に次のように言われました。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。イエスの十字架の死が敗北でなく栄光の時であり、命の源であることと同様に、わたしたちも自分の罪のうちにある命を愛するのではなく、反対にそれを憎むことにおいて実はまことの命にあずかるというのです。イエスの死が命の始まりであるように、わたしたちの命は絶えざる死でもなければなりません。日々に死に続けなくてはならないのです。
讃美歌21の575番は復活の讃美歌で、「球根の中には」というタイトルが付けられています。その中の3節冒頭にはこうあります。「いのちの終わりは/いのちの始め」。通常はこれとは反対で、はじめに命があって、やがて命の終わりである死を迎えます。しかし信仰の生涯にはこういう側面があり、自分の命がイエスの十字架と共に死ぬとき、まさにそこから新しい命が始まります。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあるのはそういうことです。「カラマーゾフの兄弟」の中にこういうシーンがありました。「彼(主人公)が大地に身を投げたときは、かよわい青年にすぎなかったが、立ち上がったときは、生涯揺らぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった」。ここには主人公の信仰における死と新しい命である復活が暗示されていると思いました。日々新たにされる命は、同時に日々死に続けなければならない命でもある。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエス・キリストの死は、そのことをわたしたちに教え、永遠の豊かな命への道をわたしたちのために開いてくださっているのです。(高橋牧師記)

