不思議な風

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた 家中に響いた」。  使徒言行録2.1-13

 

 イエスの弟子たちが一つになって集まっていたときのことです。突然、聖霊が弟子たちに降りました。彼らは大きく変わり、そこから教会が生れたのでした。そのときの様子が次のように記されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼等が座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。いったいこれはどのような出来事だったのでしょうか。

 この日はユダヤの大きな祭りで、世界各地から多くの人々が集まっていました。彼らはこの出来事に驚いて、このように言い合いました。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」。

 これはイエスの弟子たちが外国語をいきなり話しだしたということでしょうか。以前、ペンテコステに関してのマンガを読んでいましたら、ある人がペンテコステに教会へ行けば、弟子たちのように外国語が話せる。もう勉強しなくても英語が話せるようになると期待したそうです。ところが聖霊が降らないのか、自分の期待が(くだらない)のか、外国語がいつまでたっても上達しないと嘆いている内容でした。  

 そういうことではなく、エルサレムに集まっていた世界からの人々が、使徒たちの語る言葉、それは福音の命の言葉であり、その内容が分かったということなのです。語学の問題ではなく、精神・心の問題だったのです。わたしたちは日本においては日本語を用いています。そういう意味では同じ言葉ですから、気持ちが通じるはずです。けれども同じ言葉であっても、いつも理解し合えるとは限りません。職場で、地域で、学校で、また友だちどうしでも、さらには同じ家族においてさえも、言葉が必ずしも全能というわけではありません。そこには誤解があり、素通りしてしまうようなこともあるからです。反対に外国人との会話のように言葉がたどたどしくても分かり合えることもあるでしょうし、たとえ言葉や耳に障がいがあったとしても、意思疎通がうまくいかないというわけでもありません。意志の伝達に言葉は必要ですが、それ以上に重要なことは精神、心の在り方だからです。

 この日、すなわちペンテコステにおいて弟子たちに新たに聖霊が降りました。その聖霊が不思議な風のように彼らの上に降ったとき、イエスを宣べ伝える勇気が与えられました。その聖霊は福音の言葉に力を与え、人と人とをつなぐものとしていったのです。そこに言葉の一致がみられ、主イエスを信じる群れが一つとなって、さらに教会として成長していく出発となっていったのです。勇気がわいてくるような、そのことによって新しい毎日が与えられるような、この上から注がれる聖霊によって、わたしたちは生かされ、導かれていることを覚えていきたいと願います。それが今日実現しました。(高橋牧師記)