主にあって常に喜べ
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。 フィリピの信徒への手紙4.2-9

獄中で書いたこの手紙で、パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と教会の人々を励ましました。自分自身が思い煩うような逆境であったにもかかわらず、どうしてこのような前向きのことが言えるのでしょうか。これはちょうどイエスが「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6.25)に通じるものでもあります。全幅の信頼をもって自分を神に委ねるところから来る平安と力です。思い煩いとは性格の問題でなく、信仰の事柄なのです。
そのためにわたしたちに必要なのは祈りです。思い煩いを自分ひとりだけに抱え込むのではなく、むしろ神に向かってそれを打ち明ける。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧められている通りです。祈りとは神との対話ですが、人は神に向かっているときですら自己中心的になる傾向があります。そのように自分の心に向かってしまうのではなく、心を神に、上に向ける。そして求めているものを神に素直に打ち明けなさいというのです。神は必ず聞いてくださるからです。
使徒パウロはさらに言いました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。喜び。これは信仰者に与えられた大きな恵みです。喜びと笑いはどう違うのでしょうか。いつも笑っていなさいではありません。笑いがほしければ、たとえば漫才とか落語を聞きに行けばよいかもしれません。確かにそこには笑いがあります。しかし喜びは?聖書を読んでいて笑うことはないかもしれません。けれどもここには信仰から与えられる深い喜びがあります。ここで注目すべきは、「常に」という言葉です。「常に」とは「いつも」です。気が向いたとき、体調が良いときだけというのではありません。いつも喜びなさいということです。それはこれだけではありません。今読んできた勧めの言葉すべてにも当てはまるものです。「どんなことでも思い煩うのはやめさない」の「どんなことでも」。あれは大丈夫だが、これはちょっとということではなく。また「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」の「何事につけ」。それはあらゆる問題について打ち明けてよいのだよというメッセージでもあります。その日の環境や健康の状態などによってなかなか安定することのないわたしたち信仰の歩みですが、それだけに「主はすぐ近くにおられる」、そして主が共におられることから来る恵みによって、神に自らを委ねていく。
そのとき「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。自分の小さな頭や心で考えている以上のことが主から与えられるのです。主イエス・キリストはわたしたちが一を求めるとき、五を用意してくださる方です。五を求めるとき、十用意してくださいます。自分だけに閉じこもってしまうのではなく、心を前に向け、心を上に高く上げて、自らの思いを神に打ち明ける、これこそが祈りであり、そのとき神は必ずあなたのその願いや苦しみをしっかりと受け止めてくださいます。(高橋牧師記)

