主の約束の日
「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」。 エレミヤ書33.14-16

預言者エレミヤは紀元前6世紀のユダで活動しました。南王国ユダが新バビロニア帝国の侵攻を受け、風前の灯であったときのことです。そのときエレミヤは獄舎に拘留されていました。ゼデキヤ王をはじめとした権力者にとって耳障りな預言をしたからです。人間的な意味で、彼らの耳に心地よい言葉を語ったのではなく、反対に主の言葉に聞き従っていない彼らの姿勢を厳しく糾弾したのでした。
獄舎から語られたのが上記の言葉です。正義の若枝」であるイエス・キリストの誕生が実現したのは、それから6百年も後のことになります。エレミヤはその希望を獄中から預言し、逆境にある人々を励ましました。
普通は牢屋の外にいる人が、牢につながれている人を見舞い、励ますものです。今日では教誨師や保護司などがそれに当たります。ところがその逆もあるのです。鎖につながれている者が、そうでない外の自由な人々に向かって真理を示し、励ますという場合です。それはエレミヤの個人的な資質、またそれに耐える体力や強い意志があったからということではなく、神の言葉が彼に臨んだからでした。同じような試練に遭ったパウロは獄中にあってこう述べています。「この福音のためにわたしは苦しみ受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」(テモテ二 2.9)。
わたしたち信仰者は「それゆえに」ではなく、「それにもかかわらず」という世界に生きています。牢獄に入れられた。「それゆえに」信仰も希望も衰えたというのではなく、「それにもかかわらず」希望が失われることなく、むしろそこから新たな力が生まれたという世界です。こうしたことは日常生活においても言えます。人は年をとってくると、「それゆえに」それまでできたことが難しくなってくる。また病気がちにもなる。確かにそうした厳しい一面はあります。しかし「それゆえに」信仰も希望の力も衰えたとはなりません。「それにもかかわらず」の世界に生きているからです。だから「それにもかかわらず」信仰は衰えることなく、命の輝きも曇ることがありません。なぜなら「神の言葉はつながれていない」からです。わたしたちの環境がどのようなものであっても、それに左右されることなく、むしろそれを超えて神の言葉が力強く臨んでいるのです。
主の約束の言葉は、高い山の上からも、死の陰の谷からも、これまで多くの預言者によって語られてきました。じめじめとした獄中から語ったエレミヤも、そのようにキリストの誕生を指し示し、待ち望むアドベントの灯となったひとりです。この世界はまだ夜明け前のような闇に依然として包まれています。それでも曙の光が少しずつ増していく、そのような夜明け前でもあります。エレミヤが指し示した救い主誕生の約束が、アドベントの灯となってわたしたちを照らしています。一足早くその光に気づいた教会、そこにつながるわたしたち信仰者は、これからのアドベントの期間、主の御言葉に支えられながら、希望と喜びをもってクリスマスを待ち望みつつ歩んでいきたいと思います。(高橋牧師記)

