主の鍛錬を通して
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、
後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。 ヘブライ人への手紙12.4-13

ヘブライ人への手紙は、苦難を信仰者の成長の時として受け止めるよう励まし、その苦難を「鍛錬」という言葉で言い表しています。前の口語訳聖書では「訓練」としていましたが、現聖書は「鍛錬」とし、しかも「れん」を金偏(錬)で記しています。いかにも金属を打ち鍛えるような厳しい訓練という感じがします。鍛錬というのは教育の一環であり、特にそれは苦痛を伴う教育ということでしょう。こう書かれています。「わが子を、主の鍛錬を軽んじてはならない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。鍛錬、それは懲らしめを伴う、また鞭を伴う教育です。確かに鍛錬を受ける側にとっては、苦痛によって力を落としたり、取り乱したり、疲れ果ててしまうかもしれません。それでも手紙は再び語ります。「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい」。病をはじめ様々な苦しみを、主の鍛錬、愛の鞭として捉え、それに耐えなさいというのです。苦痛を伴った主の鍛錬は教育であって、罪に対する罰のようなものではありません。
そのように成長を期待されているために苦難があるということですが、勧めはそれだけにとどまりません。さらに積極的な意味が込められているからです。聖書は続けています。「神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」。この世的なたとえを用いて語られ、分かりやすいのではないでしょうか。つらいこと、それは主の鍛錬というだけにとどまらず、それは深く愛されている証拠でもある。神はあなたにいっそう御心にそうようになってもらうため、そのようなかたちで目をかけておられるということなのです。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(11節)。これで苦しみのすべてが説明できるわけでも、納得できるわけでもありませんが、それでもこの言葉はわたしたちにとって大きな力ではないでしょうか。そもそも宗教(信仰)とは、なぜ苦難があるのか、なぜ自分だけが苦しむのかといったように、苦しみの原因を求めることにあるのではなく、それ以上にそうした苦難を受け止め、そこからどのように立ち上がっていくか、自分の人生を切り開いていくか、そのために慰めや力を与えるものなのです。つらいこと、苦しいことが続くと、人は気力を失い疲れ果ててしまいます。けれどもそれは全能の神が無力であるというのではなく、罪に対する罰ということでもなく、ある意味では神の愛の別の側面なのです。苦しいこと、つらいことは決して捨てられているのではなく、そこに神の愛が注がれているのです。主イエスは打ちひしがれた者の傍らにいつもいてくださいます。(高橋牧師記)

