主よ終わりまで
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。 マタイによる福音書28.11-20

マタイ福音書はイエスの誕生であるクリスマスから始まり、十字架の死、そして復活、さらには復活後の今日の言葉で閉じられますが、そこにはある共通した言葉で囲まれていることに気づきます。「わたしはいつもあなたがたと共にいる」です。クリスマスのメッセージは、「インマヌエル」(神は我々と共にいます)でした。そして今同じように「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との言葉で福音書は閉じられます。このように「神がわたしたちと共におられる」とはどういうことなのか、それをイエスの生涯を通して具体的にお示しになりました。病める者をいやし、孤独な人と共に歩み、悲しみの人には慰めと生きる力を与えられたように。そして最後に約束の言葉として、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがと共にいる」と語られました。
それならば反対の「共にいない」とは、どういう状態でしょうか。自分のそばには誰もいない。まもなく5月に入りますので、少しは落ち着き始めたかと思いますが、前にわたしが仕えていた下松教会には幼稚園がありました。毎年4月、5月あたりには、園児がお母さんと分かれるのをいやがり、門のところに張り付いて動こうとしない光景がよく見られました。それまでずっと一緒だったお母さんと離れるのが悲しいからです。それは園児だけのことではなく、小学1年生とか親元を初めて離れて学生生活を送る若者や会社勤めをする場合も同じでしょう。園児のように泣くことはありませんが、新しい環境で知り合いが誰もいない場所での生活には、大変な緊張と不安や寂しさを感じるものです。家に帰っても明かりがついていず、迎えてくれる人もいません。それは誰もが大なり小なり経験していることでしょう。それは何も若い人々だけのことではありません。人は年を重ねると、それまで共に歩いていた夫婦とか家族の中からだれかが入院し、さらには死によって分かたれます。どんなに仲の良い家族であっても、同時に病気になったり、手術台へ一緒にのぼることはありません。高齢者ホームへの入所は幼稚園の入園とは違いますが、新たな環境であることには変わりありません。かつては共に歩む人がいた。しかしいつまでもそれが続くわけではない。この地上で築くさまざまな人と人との関係は、再びその繋がりが徐々に切れていくのです。
「わたしは天と地のいっさいの権能を授かっている……わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この地上にて悲しむ者、泣く者と共に歩まれたイエス、主はわたしたちの罪、さまざまな重荷をご自身の十字架に背負ってくださいました。しかも死を最後の場とはせず、そこからよみがえり、弟子たちにこのような力強い慰めの言葉を残されたのです。だからこそ旧約時代の信仰者も次のように言うことができたのです。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩編23.4)。ここでも共におられる神が賛美されています。主イエス・キリストは今、地上のさまざまな歩みの中において、その生のただ中にあって、また死においてさえも、いつも共にいてくださいます。いつもです。陽のあたる場所、そうした時代、あるいは光のあたらない道、厳しいつらい境遇においてさえも。どんなときでも。ここに、ここにこそわたしたちの生と死を超えた希望と力があります。(高橋牧師記)

