五つのパンと二匹の魚

イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」。  ルカによる福音書9.10-17

 ガリラヤ湖畔のベトサイダという町での出来事でした。弟子たちは人々を解散させ、めいめいで泊まる宿や食べる物を考えるようにしたらどうでしょうか、とイエスに提案しました。それに対して主は、そのとおりにしなさいとは言われませんでした。そうではなく「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのでした。

 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とイエスはわたしたちにも言われました。「えっ、わたしたちが……」、「このわたしにもできるのですか」、「それは無理です」。これは弟子たちの反応でした。当然かもしれません。というのも目の前にいる人々は余りにも多い。その数五千人以上の人々がいたのであり、他方では自分たちが持っている食べ物が余りにも少なかったからです。この近所に神戸屋というパン工場がありますが、そこでさえいきなり五千人分のパンを注文しても果たしてすぐにできるでしょうか。もっともそれに対するお金も彼らにはあるはずがありません。それにもかかわらずイエスは言われたのです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。それは「あなたがたにはそれができる」との可能性を含んだものなのです。そこでイエスは人々を草の上に座らせ、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ」ました。するとすべての人が食べて満腹し、しかも残ったパンの屑を集めると十二籠もありました。

 イエスが「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたとき、弟子たちは答えました。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」。ある意味では当然でしょう。それでもわたしたちは余りに多くこの「しかありません」という言葉を口にしているのではないでしょうか。「わたしにはこれだけしかありません」、「わたしはこれだけしかできません」。「しか、しか」、まるで歯科医院へ行くように。けれどもイエスはそのような言葉を口にする者に向かって、またそうした足りない現実を知りながら、それにもかかわらず言われたのでした。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。わたしたちは自分が思っているより、実際には多くのものが与えられている。また持っているのではないでしょうか。多くのことができるのです。持つものが少なくても、いかに多くのことができるのではないか。

 主イエスご自身は、「わたしが命のパンである」と言われました(ヨハネ6.35)。パンと魚を与えて人々を満腹させられる方は、ご自身の命をも与えられることによってわたしたちを満たしてくださる方なのです。この五千人の出来事は、わたしたちには自分が思っている以上のことができる。自分が考え、また望んでいた以上のことが、わたしにはできる。しかも余ったパン屑を集めると十二籠にもなりました。主イエスの祝福を受けるならば、主イエスを信じるならば、どのようなことであっても可能なのです。自分の持ち物の少なさ、自分自身の小ささを嘆くのではなく、そのような自分に与えられているキリストの大いなる恵み、豊かさに目を注いで、勇気と確信をもって歩んでいきたいと祈ります。(高橋牧師記)