投獄された使徒
「この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた」。 使徒言行録16.16-24

フィリピの伝道で、パウロは心に重荷を抱えていた一人の女に出会いました。神はこの人との出会いをきっかけとして、そして使徒パウロの働きをとおして福音を前進させていくのでした。
この占いをする女奴隷は心がいやされたことによって、彼女を支配していた者たちはそこから利益が得られないために、パウロとシラスを捕えて役人に引き渡してしまいました。
二人は投獄されます。それでもその夜、彼らは讃美歌を歌っていて、他の囚人たちはこれに聞き入っていました。そのような中、突然大地震が起こり、牢の鎖が外れてしまいます。看守は囚人たちが逃げてしまったと思い自殺しようとしました。パウロがそれを思いとどまらせ、看守を助けたところから、この看守は洗礼を受けるようになりました。さらに自分の家族をも紹介し、全員が洗礼にあずかりました。投獄という思いどおり行かなかった出来事をとおして、福音は前進していったのです。
今年も6月23日に沖縄で慰霊祭が行われました。20万人以上の人々が命を落とすという悲惨な地上戦が行われた場所です。今回は小学校2年生の徳元穂菜(ほのな)さんが平和の詩が朗読しました。「せんそうがこわいから/へいわをつかみたい/ずっとポケットにいれてもっておく/ぜったいおとさないように/なくさないように/わすれないように」。純真な少女のこの一節には胸に迫るものがありました。一口に20万人の死といっても、そこには一人一人の人生がありました。ああしたかったといった夢や目標があったはずです。それがメチャメチャになってしまう。いかに平和が尊いかを思い知らされます。
戦争とまでいかなくとも、自分の思いどおりに行かないことはわたしたちにもいっぱいあります。最近三浦綾子さんの「一日の苦労は、その日だけで十分です」というエッセイを読みました。13年間寝たきりの生活、しかも青春時代の真っただ中。そんな中にあってもいろいろな出会いがあり、中でも良き伴侶に恵まれ、さらに信仰が与えられていくことが語られていました。
自分の思いどおりに行かない、うまく事が運ばない。それはつらいことですが、それでもそこから新しい意味が与えられることを、パウロはフィリピの教会への手紙で書いています。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(4.11以降)。「足るを知る」とは、日本でも古くから言われています。それが「わたしを強めてくださる方」によって、すなわちわたしたちの重荷を代わりに十字架で担ってくださった主イエス・キリストによって可能なのだと言うのです。一人の女性との出会いをとおして、また投獄でさえも、主はそのどれ一つとして無駄にすることなく、福音の豊かさへと、そして信仰の交わりの中へとわたしたちを導いておられるのです。(高橋牧師記)

