人に従うのではなく

  「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」。 使徒言行録4.13-31 

思想・信教の自由は、この21世紀の現代社会においても決して守られているわけではありません。強権的な国では、多くの人々が今も苦しんでいます。そのような圧力にペトロとヨハネもさらされました。神殿の権力者に説教を禁じられたのです。今後、イエスの名によって話したり、教えたりしてはならぬと彼らは命じられました。

 それでも聖霊に満たされたペトロは、キリストをはっきり証ししました。彼らはペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知っていっそう驚きました。ここには聖霊に満たされたときの特徴がよく出ています。一つは大胆な態度。以前のペトロはどうだったでしょうか。イエスの逮捕後、彼はこそこそと大祭司の中庭までついていきました。そして薄暗い庭の片隅で、あなたはイエスの仲間ではないかと問われたとき、イエスのことを知らないと、その関係を否定しました。そんなペトロが今、しかも権力者たちを前にして堂々と語るのでした。この大胆さは決して向う見ずな態度いったものではありません。もう一つ目を見張るのは、二人が無学な普通の人であることを知って驚いたことです。確かにファリサイ派や律法学者に比べれば、彼らには学問がありませんでした。しかし神の業を証しするのにそうしたことは何ら妨げにはなりませんでした。それは聖霊の働きによるものであり、聖霊が信仰者を導いて証しをさせているからです。  

 そこでペトロとヨハネが答えます。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」。神に従うことがすべてを超える。これこそが信仰者を貫く立場です。

 教団の教憲・教規に牧師についての規則が述べられています。そこにはこう書かれています。「信仰以外の理由で禁錮以上の刑に処せられた者」は、3年以上経ないと牧師になれないとあります。ここで重要なことは、信仰はその限りではないということです。信仰の理由で禁錮刑に処せられた者は、何ら問題なしということです。ペトロもこの後のパウロも幾度か牢に囚われることになります。けれどもそれはすべて信仰による拘束でした。

 太平洋戦争中、思想や宗教界をはじめ、多くの人々が弾圧を受けました。特にホーリネス系の教会はすさまじい被害を受けました。ここにも神に従うか、人間に従うかの戦いがあったのです。戦後、解放された牧師・信徒は再びキリストを証ししていきました。

 ペトロとヨハネは釈放されてから、仲間のところへ行き、事の次第を報告しました。彼らが大胆に話せたのは、背後で教会の人々が祈っていたからです。一同が祈り終わると、集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語りだしました。第二のペンテコステと呼ばれる出来事です。わたしたち人間の目では困難に見えること、いや不可能とさえ思えることが多くあります。戦争、飢餓、生活の不安定さ、病等。それにもかかわらず神はそうした困難な扉を必ず開いてくださいます。祈ること、共に心をあわせて祈るとき、聖霊はわたしたちを覆い、ペトロがそうであったように、思いもかけない新たな力が与えられるのです。(高橋牧師記)