人を偏り見ない

    「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自分を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。  ヤコブの手紙2.1-13
                                   

 神は人を分け隔てせず、信ずる者をすべて受け入れられました。ところが現実の人間は、それとは反対のことを行いがちです。そこで語られました。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」。

 今日の社会は、これほどあからさまな差別をすることはないかもしれません。しかし口に出さないからといって差別がなくなったわけでもありません。むしろ新たな偏見、あるいは人間の平等が阻害されるようなことが生じているといったほうが正確かもしれません。8月によく語られる被爆者差別はいつも心を痛め、そこに人間の弱さや罪を見る思いです。  

 こうした態度はイエスを信じる者とは反対です。イエスは本来「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とパウロはキリストの低さを述べています(フィリピ2.6以降)。主は馬小屋に象徴されるような貧しさの極みの下で生涯を始められました。また「罪人や徴税人」という、当時の社会において底辺に位置する人々、同時に差別されていた人々の家に進んで招かれ、非難を受けながらも彼らと一緒に食事をしました。イエスは彼らのまことの友となられたのです。

 「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法、これはイエスが初めに語られた言葉ではありません。そうではなくイエスがお生まれになるはるか昔に、すでに旧約聖書で語られていたものです(レビ19.18)。それでもイエスはこの言葉に新しい意味を与えられました。というのは旧約の時代の「隣人」とは同じユダヤの民の中のことでした。それ以外は異邦人として区別されていたのです。同胞だけという限界を持った隣人愛だったのです。今でいうアメリカファースト、日本人ファーストといった感じでしょうか。それに対してイエスの愛は、そうした狭い隣人愛ではありませんでした。主は言われました。「自分を愛してくれる者を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで、どんな優れたことをしたことになろうか」(マタイ5.46以下)。イエスは隣人愛を新しい光の中で捉え直し、実際に行っていったのです。当然そこには人を偏り見たり、分け隔てしたりする狭い心はありませんでした。わたしたちのすることは、確かに不完全であることに違いありません。けれどもそうした限界を抱えつつ、そのような自らの限界を意識しつつも、心から語り、人を偏り見ることなくふるまうことの大切さがここで述べられているのです。またそれがひいては自らをも自由にしていきます。(高橋牧師記)