今こそ恵みの時
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。 コリント書二 6.1-10

「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」。わたしたちは神からいただいた恵みを恵みとしてしっかりと受け止めているでしょうか。パウロは言いました。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。ここで強調されているのは、今です。今というこの時、今という今日の一日。それは昨日でも昨年でもない。またそのうちいつかという明日のことでもありません。信仰は、今、今日という日なのです。
もちろんその今は、いつも人間的に見て恵みの時として受け止められるようなことばかりではありません。病気の時もあれば、失業の時もあり、学業がうまくいかない時もあるでしょう。しかし「恵みの時」とは、わたしたち人間の目に心地よい、人からもそのように見える時のことだけではないのです。
パウロは次のようなことを語ります。「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓……純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉」。これらはパウロ自身の経験でしょう。そこにはうまく行っている場合、反対に逆境が述べられています。この中にはわたしたちにも共通するものもあります。鞭打ちとか監禁こそないかもしれませんが、苦難、欠乏、行き詰まり、労苦、不眠などは誰にも思い当たるのではないでしょうか。その反対にうまく行っている場合、それは寛容とか親切であるかもしれません。
先日、庭野平和賞の受賞が報道されていました。今年はラプスレーという聖公会の司祭でした。わたしはこの方の本「記憶の癒し」を以前読んでいましたので、大変興味深くこの記事を読みました。ラプスレー司祭は南アフリカで宣教活動を行っています。特にアパルトヘイトといった人種隔離政策の厳しい時代に、反アパルトヘイト運動を行っていました。あるとき彼の家に届いた小包を開いたとたん、中に仕掛けられていた爆弾が爆発し、その結果両手と片目を失いました。1990年のことです。そうした中でも語ります。「怒りや憎しみは毒のようなもので、相手だけでなく自分自身をも傷つける。それは現在のウクライナにおける戦争についても当てはまる」と。著書の中でこう述べています。「自分がこの先ずっと障がいと共に生きなくてはならないと自覚したとき、かつて見たあるイコン(キリスト像)を思い出した。その像は片足が、もう一方の足よりも短いキリストを描いたもの。まさにイザヤが語る救い主、それは人の子の面影がなく、軽蔑され、見捨てられる人として語られるのに共通する」。だから言います。「信仰による祈りは、爆弾によって傷ついたわたしを癒してくれる。それは死から命を、邪悪なものから善なるものを救い出してくれた。自分が被害者として居続けることから、勝利者となるために、生き残った者としての旅路を踏み出すようにと促してくれた」。
「死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」と聖書は語ります。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日である」。人間的に見てどのような時であっても。だから今日の恵みを無駄にしてはならないのです。(高橋牧師記)

