きずな

    「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」。  コロサイの信徒への手紙3.12-17
                                                                         

 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」(12節)と聖書は語ります。この憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、さらには次に出てくる赦す、赦し合う、これらは愛の別のかたちだといえます。愛とは好きになるということだけでなく、それ以上にこうした人格的、意志的なかたちをとるものなのです。イエスは自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさいと言われました。それは好きになりないということ以上に、こうした慈愛、寛容、赦しを身に着けなさいということだと思います。

 「身に着ける」。これは服を着るというイメージです。反対になかなか身に着かないといったりもします。直前にも「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」なさいとあります。何を着るか、何を身に着けるか、それは何を着ないか、何を脱ぎ捨てるかということでもあります。信仰という本質においても、何を脱ぎ捨てるか、また何を身に着けるかは吟味されなくてはなりません。それが「造り主の姿に倣う新しい人を身に着けなさい」です。具体的なことでいえば、この聖書の箇所のように、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」ということです。さらにこう続きます。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と。  

 「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい」と語っています。「これらすべて」とは、「憐れみの心」から始まって「互いに赦し合いなさい」までのことです。ちょうど下着から始まって、いろいろ服を重ねていくように身に着けていくのです。その最後が愛という服です。いや、愛とはこれまでの身に着けるべき服と並列ではなく、一番最後に来る、最も大切なものという意味なのでしょう。聖書はそれを「きずな」と呼びました。この「きずな」、口語訳聖書では「帯」と訳していました。着物を身に着けるという流れからは、こちらの方がしっくりいくかもしれません。「愛は、すべてを完成に結ぶ帯である」。一昔までの和服文化ならば、ここでイメージされていることがもっと分かると思います。最後にそれらをまとめるのが帯です。どれだけ個々の着物が立派であっても、帯がなければ前がはだけてだらしない姿になってしまいます。帯は全体を完成させる、調和させるものなのです。それは信仰生活においても同様です。着物のイメージでいえば、そこに最後の帯である愛がなければ、だらしのない姿をさらけだすだけなのです。愛は個々の賜物、それぞれの働きをバラバラにしないで、全体を調和させ互いを結び合わせるきずなとなるのです。

 わたしたち一人ひとりにおいてあらわされるいろいろな賜物や働きにおいても、全体を調和あるものとして発揮されるためには、最後の一つ、しかも全体をまとめるものとして愛があるかどうかにかかっているのではないでしょうか。それぞれのすばらしい賜物を生かしもすれば、台無しにもする。それは愛にかかっている。愛はちょうど帯のように最後に腰に締めて全体をまとめる役割をもっているのです。(高橋牧師記) 2025.8.31