偽りから目覚めて

    「また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」。  使徒言行録19.11-20

  「彼(パウロ)が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」。さまざまな迷信や溺れる者は藁をもつかむ思いが信仰と絡み合った人間の姿です。

 ここにユダヤ人祈祷師たちがいました。この者たちはそのパウロを真似て、病に苦しんでいる人々に向かい、「試みに、イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』」と言いました。けれども「試みに」行ったとあるように、信じてもいないことを口先だけで行ったとしても、そこには何の力も生まれません。祈祷師たちは、パウロの信仰の背後で働く神を見ないで、パウロの働きのみに目を奪われていたのでした。彼らは表面的なところだけをなぞっていただけなのです。すべての基である神を信じることなく、その御言葉に立つのでもなく、さらには信仰に導かれるのでもなく、単に表面的な人々の目を見張るようなこと、人の歓心を買うことのみを追いかけていたのでした。  

 祈祷師と彼らを巡る人々を目にするとき、それはわたしたちの現代社会についても決して無関係ではないように思えます。あれほど社会的に影響を与えたオウム真理教や現在の統一教会の出来事は、一部は過去のことかもしれません。けれども「オウム真理教的なもの」は、今でもこの世界に存在しています。人間の弱さとか、迷いや不安につけ込み、また悪用したりして、人をとんでもない道へと導いていく。またそれを心から信じて導かれていく人々。この世界は確かに不信仰、無関心の世の中ではありますが、別の面から言えばまことに簡単に信じやすい、実に信仰的?な世の中でもあるのです。ただその信仰の中身が十分に吟味されないままではありますが。

 「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」。他方では祈祷師たちの偽りの宗教がありました。このような出来事を目の当たりにした人々の中から、多くの信仰者が生まれました。そこで彼らは自分たちの悪行をはっきり告白しました。彼らは魔術に関する多くの書物を持って来て、皆の前で焼き捨てました。その値段を見積もってみると、銀貨5万枚にもなったということです。銀貨5万枚とは5万日働いた金額です。これを単純計算しますと137年分に相当します。これが皆の前で焼き捨てた書物の金額でした。

 最近断捨離という言葉をよく耳にします。これは終活の一環として、物を捨てていく、身辺をすっきりさせるということです。確かにそうした外側、物の整理は必要だとは思います。しかしわたしたちの内面はどうでしょうか。そこにもさまざまな余分なものが付着しているのではないでしょうか。思い煩い、虚栄や偽り、うぬぼれ、自分中心。彼らは聖書の信仰に導かれたとき、それまで自分たちが信じていたもの、自分たちが捕らわれていたものから決別しました。それが銀貨5万枚にもなる書物の焼き捨てに現れました。これは単なる断捨離ではなく、キリストの信仰という内なる変化から生まれた新たな決断でした。キリストを信じて生きるとは、目覚めて生きるということです。それまで信じていたものがつまらなく見え、それまで見えていなかったものが大きな慰めや力になっていくのでした。(高橋牧師記)