共に歩む方

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 ルカによる福音書24.13-35  

 イースターの日、二人の弟子がエルサレムから11kmほど離れたエマオという村へ向かっていました。そこへイエスが近づき、彼らと一緒に歩き始められます。ところが「二人の目は遮られていて」、その人が復活のイエスだとは分かりませんでした。そこでイエスは、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」ました。

 一行はエマオに到着し、そこで食事を共にしました。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しに」なります。すると二人の目が開け、その旅人がイエスだと分かりました。そこで二人は言うのでした。「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。

 このエマオ途上の物語はイエスの復活とは何か、またどのようにして復活のイエスに出会うかを豊かに示しています。まず一点、それはエマオへの道を一緒に歩いておられたときのことです。イエスは、聖書から御自分について説明されました。今でいう礼拝の説教、あるいは水曜の「聖書に親しむ会」に相当します。人間のこわばった心、遮られた目、また暗い顔、それらは聖書の解き明かしによって癒されていくのでした。  

 聖書の解き明かしを第一点とするならば、二点目として食事を挙げることができます。二人の弟子たちに引き止められて食事の席に着いたときのこと、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。第一点の聖書を説き明かすイエスと同様、ここでは食事を通して御自身を現されることになりました。この食事は単なる食事だけを意味しているのではありません。以前5千人に食べ物を与えられたとき(9章)、また特に「これはわたしの体である。わたしの血である」として、弟子たちと最後の晩餐を共にされたときと同じです(22章)。それと同様に、二人の弟子たちと共にした食事は単なる食事にとどまらず、それ以上のもの、それを通して神の祝福が彼らの命、さらには生活全体に満ち溢れるように、しかもイエスの十字架の死による新しい契約の実現がここには含まれていたのです。そういう意味では、この食事は聖餐を指し示したものといえます。

 まさにその時でした。二人の目が開け、自分たちの前にいる旅人が復活のイエスであることが分かったのは。それまで遮られていた目、そのため暗い顔をしていた二人が、ここ復活の主に出会うことにより、明るい顔をした喜びと希望に生きる人となったのでした。

 このように道すがらの聖書の解き明かし、それと共に食事に示される聖餐の恵みに与るとき、まさにそのとき彼らの目が開かれたのでした。今日の御言葉の宣教と聖礼典といってもよいと思います。そして彼らは言うのでした。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。このように復活の主イエス・キリストは、わたしたちの同伴者、共に歩む旅人として、いつも共にいてくださっているのです。わたしたちはもう暗い顔をして歩むことはありません。(高橋牧師記)