再会の約束

「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。 ヨハネ福音書16.12-24

 

 イエスは弟子たちに語られました。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。弟子たちの前のイエスがいなくなっても、次は聖霊の働きによって宣教が推し進められることを述べたものです。神は聖霊によってそれまでと何ら変わることなく、共に歩む方として導いてくださるのです。

 けれども弟子たちには、イエスとその後の聖霊との関係がよく分かりませんでした。そこで言い合います。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになるとは何のことだろう」。

 これまで弟子たちはイエスと一緒にいるということで、直接的なつながり、肉眼の目で見える、そうした関係のもとにありました。しかし次にお会いするのは、もはやそのような関係ではありません。信仰で受け止める世界です。聖霊の働きをとおしてイエスにお会いするのです。

 聖霊は目に見えません。しかし見えないからといって、それがないということではありません。人々は聖霊を風のように捉えていました。風は思いのままに吹く。しかしその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかは誰も知らない。聖霊とはそのようなものなのです。  

 先日、わたしはある視覚障がい者の方の次のような言葉を聞いて、なるほどと思わされました。それはコロナ禍にあってマスクをする生活から気づかされたというものです。その方はマスクをするようになってから、これまで20年間歩き続けてきた通勤の道で何度か迷ってしまうことがあったそうです。どうしてなのか。そのとき気づいたことは、自分は風の流れや太陽の熱、植物の匂いなど、普段からいろいろなものを感じながら歩いていたんだということです。顔というのはその全体が一つのセンサーのような役割をしてそうしたものを感じ取っているのであり、それがマスクの布一枚でもって隔てられるだけで、感覚が狂ってしまうというのは貴重な発見であったと言っていました。マスクはウイルスを防止しますが、風の流れや太陽の微妙な熱をも防いでしまっているのです。このような感じは、聖霊の働きに似てもいます。目には見えない。しかし感じることができる。それはいろいろな恵みをもたらしてくれるのです。

 今、弟子たちと共に歩まれたイエスが、彼らから去って行こうとされます。そんな不安と恐れを抱いた弟子たちに対し、産みの苦しみとその後に来る喜びのたとえを語られました。そしてその出産の喜び以上に、信仰によって与えられる喜びは、すべての悲しみや不安を癒してくれます。わたしたちはいつもニコニコしているわけではありませんが、いつも喜びで満たされている者なのです。そしてその喜びは誰も奪い去ることができません。なぜならこれまで共に歩まれたイエス同様、聖霊がわたしたちと共にあり、また内にあって支えてくださるからです。現在もわたしたちにはさまざまな不安があり、恐れがあり、苦しみがあります。それでも真理の霊が、わたしたちの内にあって、また共にあって、イエス同様の力をもって支え励ましていてくださるのです。(高橋牧師記)