出会い
イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを
見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。 ヨハネによる福音書1.35-51

バプテスマのヨハネに2人の弟子がいました。1人はアンデレ、もう1人は名前が記されていません。その2人の弟子を連れて歩いていたとき、ヨハネはイエスを見つめ、「見よ、神の小羊だ」と言いました。そして自分の弟子たちをイエスの方に向けました。そこで2人はイエスについて行き、イエスのもとに泊まりました。その晩どんなことが話されたのかは書かれていません。しかし普段なかなか話し合うことができない大切なものに触れる機会となったことでしょう。アンデレは信仰に入り、次の日、早速自分の兄弟であるペトロにキリストのことを話しました。
寝食を共にする。人間が神を信じるというような心の深いところの出来事には、こうした顔と顔を合わせた対面が必要です。今日、パソコンやスマホでは様々な情報が入手でき、人と人とのやり取りも多くの人々と同時に、しかも瞬時に行うことが可能となってきました。わたし自身もそうした恩恵を十分に受けています。けれどもインターネットが万能であるわけではありません。そこには限界もあり、反対にマイナスとなる問題も中にはあります。信仰の交わりをはじめとした魂の部分、人格的な出会いというのは、そうした通信技術ではカバーできるものではありません。今年はSNSの技術がいっそう進化するようですが、しかし直接会う、直接話すということを通してしか得られず、また深めることができないものは依然として残るのではないでしょうか。
3人目はフィリポです。イエスは彼に出会い「私に従いなさい」と言って、彼を招かれました。それ以上、どのような遣り取りがあったかは記されていません。確かなことはその後フィリポが信仰者となり、今度はキリストを証しするようになったということです。彼はナタナエルに出会ったとき、救い主イエスに出会ったと語りました。フィリポは、「来て、見なさい」とナタナエルをイエスのもとに連れて行ったのでした。
「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハネ福音書6.44)とはイエスの言葉であり、まさに信仰とは自分の思いではなく、神の永遠の御心のもとで成り立つものでしょう。そうした中にあって、またそれだからこそ、少しでもこの地上に神の御心が実現するためにわたしたちは自分のことだけでなく、自らが関わる友人・知人にキリストを紹介しなくてはなりません。教会に案内する。信仰について語る。イエス・キリストを証しする。もっともそこでは自らが多くを語ることはできないかもしれません。そうではなくても、大切なことは、とにかく「来て、見なさい」ということであり、主イエスがその道を直接示してくださることにゆだねていくことなのです。そうした過程をとおして、人は三重の出会いを経験していきます。一つは当然イエス・キリストによる信仰の出会い、次に人との出会い、そして最後はまことの自分自身との出会いです。そのためには、このような顔と顔を合わせた誠実で人格的な交わりを欠かすことができません。(高橋牧師記)

