古い人を脱ぎ捨てる

 「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造ら れた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」。  エフェソ書4.17-32

 わたしの友人の牧師が、隠退して施設に転居したときのことです。それまでの牧師館から、狭い施設に荷物を運ぶのは大変でした。何を捨てるか、そして何を持っていくか。断捨離ではありませんが、その整理はなかなか大変で、それはだれにもあてはまります。

 持ち物にそうしたむずかしさがあるのですから、わたしたちの内面においてはいっそう捨てることには困難が伴います。聖書はそれを服を着る、服を脱ぐことを背景にして述べています。それが上に記した聖句です。そこには古い人と新しい人が語られています。一人の人間の中にある二つの面です。それをあたかも服を着たり脱いだりするようなこととして語るのです。 

 それならば脱ぎ捨てるべき古い人とはどのような人でしょうか。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。また無慈悲、怒り、憤り、わめき、そしりなど神の聖霊を悲しませる。そこでそれらを一切の悪意と一緒に脱ぎ捨てなさいと言います。

 8月には戦争関連のドキュメンタリー放送がテレビで多く放映されました。沖縄戦、中国や東南アジアでの戦禍。そこでは多くの民間人や兵隊たちが命を落としました。上官たちは普段は勇ましいことを言っても、我先にと逃げる者がいました。そのなかで戦場に取り残された兵士たちは悲惨でした。たとえ戦後を生きた者であっても複雑な思い、精神的な重荷、良心の呵責を覚えて苦しんでいました。こうした人間の醜さ、利己心を目の当たりにする、それが戦争でした。これもまた古くなった服であり、そのようなぼろになった服は脱ぎ捨てなくてはなりません。

 それに対して新しい服とは何でしょう。新たに着るべき新しい人とはどのような人のことでしょう。次のように語られています。「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」。この新しさへ導く鍵はキリストにあります。イエス・キリストこそ、古い人と新しい人、古い自分と新しい自分とを分ける鍵なのです。人間は生まれたまま、自然のままでは神の御心に沿うことができません。思いも行いもすべて罪によって、闇に覆われているからです。そうした肉なる自分中心の在り方からわたしたちを解放してくださったのがキリストでした。キリストが代わりに罪を担ってくださいました。新しい人、それはキリストにかかっているのです。

 「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。わたしたちの周りの兄弟姉妹、隣人が困っているとき、悲しんでいるとき、それを見ながら少しも気にならないというのではなく、あたかも自分自身に起こったことと少しも変わらないかのように心動かされる。わたしたちは新しい人を身に着けて歩んでいるのです。それは年齢に左右されません。古い服を着た若者もいますし、新しい服を着た高齢者も可能なのです。大切なことはキリストに結ばれているかどうかの一点にかかっているのです。(高橋牧師記)