命は人間を照らす光

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。      ヨハネによる福音書1.1-14

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。この荘重な書き出しからヨハネ福音書は始まります。ここでの「言」とは、人間の口から語られる言葉という意味ではなく、ある特定の人物を指したものです。「言は神であった」とありますように、具体的にはイエス・キリストその人です。

 いと高き神でもあったキリストが、この世に降られました。最後の14節でこう語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。これがヨハネの語るクリスマスです。ここでの「肉」とは、すき焼きとかハンバーグといった食べる肉のことではありません。またおなかにぜい肉がついたというような肉のことでもありません。そうではなく、人間の一面を示したものなのです。しかも罪の中にある弱い面としての人間をです。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」と預言者イザヤが語るようにです(40.7)。キリストが、今そのように同じ弱さを抱えた人間となり、わたしたちの間に宿られました。これこそ馬小屋でお生まれになったイエスの姿でなくて何でありましょう。神の子がわたしたちのために、天の栄光の高みからいやしく貧しい状態にまで降ってこられたのです。  

 キリストはまことの神であり、初めから神と共におられた方であったにもかかわらず、肉なる人間となられた。人間の弱さや腐敗の世界に身を置かれました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とはそのことです。しかしそのキリストの内には命がありました。命は人間を照らす光でした。しかも光であるキリストは暗闇の中で今も輝いています。

 先週、ウクライナのゼレンスキー大統領がアメリカを訪問し、議会で演説をしました。その中で印象的な言葉がありました。次のような言葉でした。「今年のウクライナ国民はローソクの光でクリスマスをお祝いしています。それは決してロマンチックだからというのではありません。電力がないからです」。ここにはウクライナの置かれた厳しい現状が示されています。ウクライナという国は地図で見ますと、北海道より北、樺太あたりに位置します。電気が十分でないということは、風呂も料理も、生活すべてに影響を及ぼします。彼らは凍えるような寒さの中で、この時を生きているのです。そんな中、「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」とのメッセージは、どれだけ力強く慰めに満ちて聞こえるのでしょうか。わたしたちはそこまで悲惨ではありませんが、それでもこの世界は、そして一人ひとりの心の中は、今も闇で覆われています。

 信仰者は人間の願いや努力によるのではなく、神によって生まれます。それを可能にしたのは、栄光のキリストがこの弱く貧しい人間と同じ姿を取り、わたしたちの肉を新しい人間へと造り変えてくださったからです。この恵みは誰にも等しく与えられている、それがクリスマスのおとずれを通してわたしたちに与えられた神からの最高のプレゼントなのです。(高橋牧師記)