善にさとく悪には疎く

    「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」。  テサロニケの信徒への手紙二 3.6-15                              

 キリスト教の信仰において重要なものの一つに終末信仰があります。終末と言いますと、一般には世の滅びのようなものとか、あるいはまた一人の人間の終わり(終末医療)というようなことを思い浮かべるかもしれません。しかし聖書における終末とはそうではなく、「主の祈り」の中で「み国を来たらせたまえ」と祈るように、また「使徒信条」で「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と告白しているような神の救いの完成、それゆえこの世の不義やさまざまな矛盾が取り除かれる時です。わたしたち人間の個人的な初めと終わり、生と死を含めて、すべてを覆いつくすもの、それが終末という神の完成の時なのです。  

 信仰者とはこのような神のまったき救いの時を待ち望みながら、それぞれに与えられた日々の自分の時、教会の時を歩んでいきます。それが「待ちつつ急ぎつつ」という緊張関係のもとに生きるということであり、そこから信仰者の豊かさが生まれてきます。ところがこの教会の中にはそのバランスが崩れて、どちらか一方に傾く信仰者がおり、それになびく人々もいました。たとえば「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」とあります(2.2)。いわゆる終末のことで、それに心動かされる信仰者たちがいたのです。それは希望をもって待ち望むという信仰の面を失うことであり、当然そこから生活に動揺が起きたのでしょう。けれども信仰者はいつも目標を目指しながら歩みつつ、まだ到達していない途上の存在です。決して完成した者ではありません。

 「兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい」(6節)。主の日は霊において既に来てしまったかのように言う者がいた。あるいは、主の日は今すぐにやって来ると危機感をあおる者もいたようです。そしてその分、動揺が生まれ、日常生活がおろそかになっていたのです。そこから怠惰な生活が生じ、少しも働かず、余計なことをしている者がいました。この「怠惰な生活」や「働かず」とは、現代で言う失業率が高くてなかなか仕事にありつけないといったことではなく、むしろ信仰に基づく問題として述べているのです。それに対して使徒は言うのでした。「そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれている者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」(同書一5.16-22)。つとめて落ち着いた生活をし、日々どんな小さなことであっても自分の業に励む。それこそ「み国を来たらせたまえ」と祈る、終末を待ち望む信仰から生まれる生活です。終末を待ち望む信仰と、地に足の着いた生活は深く関係しているのです。(高橋牧師記)