多くの証人に囲まれて

  「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分
   に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。 
                                                 ヘブライ人への手紙12.1-3

 人生はマラソンのようだと言われますが、それと同様信仰の歩みも陸上のトラック競技にたとえられています。それも短距離レースではなく長距離として。ここには信仰者が陸上競技場を走っている姿がイメージされています。レースですから、当然我慢が求められます。

 この箇所から二点示されています。第一点は観客との関係においてです。信仰の生涯においてわたしたちは競技場の選手のように走りますが、しかし一人ではありません。そこには観客がいます。ただ信仰のレースでは、そうした人々は観客ではなく、「証人」と呼ばれています。観客と証人の違い、それは観客の多くが見物人であるのに対し、証人は彼らもかつてはこのトラックを走り抜いた人々であったということです。信仰のレースの苦しさや喜びを体験した人々です。

 スタンドで見守ってくれている具体的な証人とは、前の11章に出てきます。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセといった人々。彼らはその生涯をさまざまな形で生き抜きました。その喜びや困難はいろいろです。しかし異口同音に告白していることがありました。それは信仰を抱いて歩んだ道が決して空しいレースではなかったということ、むしろ勝利であり、最後は希望と喜びの生涯であったということでした。スタンドで応援し、見守ってくれている人々はそれだけではありません。その後のキリスト教2千年の歴史を支えた人々もまた証人としてスタンドにいます。彼らはすでにこの世にはいません。けれども信仰によって今もなおわたしたちに語ってくれているのです。

 このような観客以上の証人がいるのですが、それを支えとして自らがしっかりしなくてはならないことは当然です。競技では最初がきつかったり、途中でお腹が痛くなったりといったように、いろいろなハプニングが起きるものです。信仰の歩みもそれと似たようなこと、苦しいことがけっこうあるものです。しつこく「絡みつく罪」、また不信仰の誘惑に負けて足が自由に前に出なくなってしまうことがあります。忍耐力・持久力がなくなり、信仰の歩みに自信が持てなくなってしまうこともあります。けれどもわたしたちが決して忘れてならないことは、「信仰の創始者また完成者であるイエス」がわたしたち一人ひとりの前を同じように走っていてくださるということです。「このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」。これが第二点です。

 わたしたちは、そして一人ひとりは、今このように自分に定められている競走のさ中にあります。その長い道のりで倦み疲れ、足や心が重くなることはあるでしょう。しかし一人だけで走っているのではありません。周りに多くの証人が温かい眼差しで見守り、応援してくれているからです。また前を向けば、そこには信仰の創始者、完成者であるイエスが走っておられます。その方を見つめながら、自らの道を歩み抜きたいと心から願うものです。(高橋牧師記)