キリスト、栄光の希望
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを
身をもって満たしています」。 コロサイの信徒への手紙1.24-29

苦難というのは誰にとってもつらく、それゆえ避けたいものですが、信仰者にとってはそこに新しい意味がもたらされるものでもあります。パウロがこう述べているとおりです。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」ている。苦しみと喜び、それはキリストの信仰と深く関係しています。
イエスはご自分の民のところへ来られたにもかかわらず、民は彼を受け入れませんでした。その生涯はまさに戦いそのものであり、最後は十字架の死でした。何ら罪を犯したわけでもないのに、罪人のひとりに数え上げられたのは、神の国を宣べ伝え、そのように歩もうとすることが、この世ではいかに抵抗があるかを示しています。
近年はかなり高いところまでロープウェーや道路が整備され、簡単に山頂近くまで行けるようになりました。わたしの故郷近くの伊吹山にドライブウェーができたのは中学生の頃だったように思います。いつだったか登山道を大変な思いをして登ってみたら、山頂に軽装の人たちがいたことに驚いたことがあります。それはそれとして、苦労して山頂を極めてから食べる昼食は格別においしく感じられます。簡単に登ったときと比べて、その弁当は同じものであっても味が違うことはどなたも経験していることでしょう。また眺める景色もより満足感を与えてくれるものです。苦しみと喜びの関係は、これに似ています。簡単に得られる喜びは、その分簡単に消え去っていくものです。快適さは便利ではあるが、喜びを奪う面があるということでしょうか。
教会のことを「キリストの体」と言います。イエス・キリストの尊い十字架の血によって贖われた群れだからです。その死から復活することによって、もはや信じる者が闇の中を歩むことなく、反対に光の子として、新しい命に生きるようにしてくださいました。そのようにキリストの救いは完成したのですが、同時にわたしたち信仰者は今も様々な限界を抱えて地上に生きる者でもあります。そこには過ちがあり、罪を犯す現実に直面する日々です。老いがもたらす諸問題があり、病気などもあります。人間関係の悩みもそうです。それが今の生活です。一方ではキリストの体に属する者として祝福の中を歩むことをゆるされているのですが、他方ではこのような肉の弱さゆえにもがき苦しんでもいます。
この地上を旅する教会、その中を歩むわたしたち一人ひとり、そこには欠けがあるのは事実です。それでもいつまでも同じところにとどまっているのではなく、「キリストに結ばれて完全な者となるように」召された、そのような欠けたる者でもあります。「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」とパウロは結びました。それは使徒パウロだけではなく、現在のわたしたちにも求められている姿勢であり、わたしたちに与えられた恵みでもあります。つらいことがあっても、やがて明らかにされる神の計画、それを待ち望みつつ、今もわたしたちの内に生きて働いておられるキリスト、その栄光の希望によって励まされながら歩んでいくのです。(高橋牧師記)

