大胆に語る
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。 使徒言行録4.5-12

ペトロは足の不自由な1人の男を癒した後、そこにいた人々に向かってイエス・キリストの救いと癒しについて語り始めました。ところがそれを見ていた祭司や神殿守衛長たちは、いらだってペトロとヨハネを捕らえて牢に入れ、翌日2人を一同の前に立たせました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」。自分たち最高権力者を差し置いて、他にどんな権威によっているのか、それはだれの名前なのかということでしょう。それに対してペトロが答えました。この人が回復したのは、イエス・キリストの名によるものであり、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。このような場で「イエスはわたしの救い主」という告白は、なかなか言えるものではありません。こういう状況での信仰告白は危険であり、単に信仰の問題という以上に社会的意味合いを持っていたからです。
「イエスだけがわたしの救い」との信仰、実はこれはもう一つの告白をしています。すなわち、それ以外には救いはない。その他のいかなる権威にも、わたしは従わないという告白です。それが力ある王であれ、国であっても、主なる神を超えた権威はこの地上には、またどんな人間にも与えられていないということです。
今週の土曜日の6月24日、それは日本基督教団の創立記念日です(1941年)。日本にはさまざまな教派が存在していたのですが、それが一つにまとめられ日本基督教団となりました。それを教憲前文でこう記しています。「わが国における30余派の福音主義教会およびその他の伝統をもつ教会は、それぞれ分立して存在していたが、1941年6月24日くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって、おのおのその歴史的特質を尊重しつつ聖なる公同教会の交わりに入るに至った」。「くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって」、このように言い表された合同という面の裏側には、ここに記されていませんが当時の戦時体制の中で国の強い圧力もありました。時の教会指導者の苦悩とむずかしい選択があったことと思いますが、「イエスはわたしの救い主、ほかのだれによっても、救いは得られません」とのペトロの告白は、この場合どのような形を取るべきなのでしょうか。
「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。この信仰告白はわたしたちにとっては当たり前のことであり、ある面では抵抗なく言うことができますが、他のところでは、特に対立する緊張した場所ではなかなかむずかしいものですし、それに基づいて行動することが困難となります。けれどもこの信仰告白こそわたしたちを根本において、そして最終的に支え生かすものなのです。教会の主は、世界の主でもあり、歴史を、またわたしたち一人ひとりの生涯を支配し導いてくださる方でもあります。それゆえに教会で告白していることは、いかなる生活の場でも同じ告白なのであり、さらにはその信仰告白に基づいて生きることができるのであり、これこそがわたしたちの命を豊かにしていくのです。(高橋牧師記)

