恥辱が誉れに変わる
「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる」。 ゼファニヤ書3.14-20

ゼファニヤは他の旧約の預言者同様、神の救いを待ち望み、それを指し示しました。わずか3章からなる小さな預言書ですが、一方でゼファニヤはイスラエルの人々の不正や偽善を叱責しました。神から遠く離れた人間の現状に対してです。それは今日の社会についても言えることです。現代も実に多くの問題を抱えているからです。中東で、欧州で、いや世界中で。人権の国を自負するアメリカでさえ分断と暴力に満ちています。わたしたちの国もさまざまな問題をはらんで苦悩しています。旧統一教会と政治の関係、切りがない国防費の増額、そしてその分、子どもや高齢者への手当が貧弱になっていく福祉予算。いったいどれだけ防衛にお金をつぎ込めば国は安全になるというのでしょうか。そうではなく、平和と公平と正義が推し進められるようひたすら祈るものです。
預言者はそうした社会の堕落と悩みの中にある人々に回復の希望を語るのでした。「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる」(17節)。まことに聖書の神は、罪に対する激しい怒り、裁きと同時に、赦しと愛を示される方でした。
預言者ゼファニヤは「人々のただ中におられる神」を中心に語りました。「イスラエルの王なる主はお前のただ中におられる」。それはあなたがたと共におられる、あなたがたの内におられる、またあなたがたの間におられる神とも言えます。
わたしは下松教会時代、3期6年間、教区議長の任に当たりました。そうした重責を担うということは、自分の教会外においていろいろ難しい問題に接することであり、悩み、ときには解決の見込みのないような苦しみに直面し、そうしたとき孤独感に強く襲われたものでした。妻も近くからそれを見、祈ってくれたでしょうが、夫婦であってもすべてを分かち合えるものではありません。それはどんなに仲の良い親子・友人であっても、一緒にそろって病気になることはなく、手術台へは一人で上がらなければならないのと同じです。そうした中にあって、主があなたのただ中におられることはどれほど慰めと励ましであったことでしょう。一人になっても祈ることができる。また聖霊がどのような状況においても臨んでくださるというのは慰めであり、そのことで立ちあがる勇気も与えられました。
まさにこの共におられる神こそ、わたしたちがまもなく迎えるクリスマスのメッセージでもあります。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1.23)。どんなに小さな交わりであっても、またたった一人であっても、主は共にいてくださる。ゼファニヤが語る「あなたがたのただ中におられる神」は、このようにインマヌエルの神としてのイエスの誕生において実現するのでした。そのクリスマスをわたしたちはまもなく迎えようとしています。そのようにいつも、どんなときにも共にいてくださる主イエス・キリストを心から待ち望みたいと思います。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との主イエスの約束に支えられて(マタイ28.20)。(高橋牧師記)

