惜しまず豊かに蒔く

 「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。  コリント書二 9.6-15

 エルサレム教会は何らかの理由で経済的な助けを必要としていました。そこでパウロは伝道旅行の先々で彼らのための募金活動を行いました。ただ募金を求めるのみならず、その根底にある献げるという精神についても述べています。

 まず一つ、献金とは形としてはお金の動きを指しますが、内容としては献身であり、信仰の事柄であるということです。上記に掲載した聖句のとおりです。会費とか税金のように義務や強制を伴うものではなく、あくまで信仰の事柄、また自主的なものなのです。もちろんわたしたちの献身に基づくものではありますが、その前に神の献身があったことを忘れてはなりません。神は独り子イエスをこの世にお与えになることによって、この世に対し、そしてわたしたち一人一人に愛を示してくださいました。この応答として、わたしたちの献身があり、さらにその具体的な動きの一つとして献金があるのです。

 献金というのは金銭の事柄ですから、その表現が露骨にならないようパウロは献金という言葉を用いず婉曲的に述べています。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(6節)。金銭は人間の欲と結びつきやすいものだけに、よりいっそう信仰との結びつきを強めなくてはなりません。与えること、献げることは自分が貧しくなるとか、自分のものが少なくなるということではなく、反対に豊かになるのです。種を蒔くとは一度は自分の手から持ち物が離れ、地面に消えてなくなります。けれどもその後、豊かな収穫となって再び現れます。それが信仰、献身と結びついたお金の動きです。余裕があるから献金ができるというものではありません。

 献金は献身のしるしということですが、もう一つは分かち合いでもあります。交わりという意味です。その言葉が13節に出ています。「この奉仕の業(献金)が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます」。この「施しを分ける」が、すなわち分かち合いという交わりです。神の愛を受けた者、信仰の恵みに触れた者は、もはや自分のためだけに生きるのをやめ、他の人と分かち合う方向へと導かれていきます。愛とか信仰という内面の動きは、外へは分かち合うという行為を生み出していくのです。どれだけ多くを持つかではなく、どれだけ多くを与えるかが豊かさの証しなのです。「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。

 人は生まれながらの状態では心が狭く、欲深い面をもっています。けれども主はわたしたちが生涯を送るのに必要なものを必ず与えてくださいます。それだけでなく他人の必要に対して援助できるだけのものをも与えてくださっているのです。決してわたしたちは自分自身のためだけに生まれてきたのでも、そのように生きるものでもありません。誰と共に生きるか、それは自分の持ち物、自分に与えられた賜物等々を、わたしたちは分かち合うことにおいても豊かになるように導かれているのです。(高橋牧師記)