愛は多くの罪を覆う

「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互い仕えなさい」。  ペトロの手紙一4.7-11

 この箇所の冒頭、「万物の終わりが迫っています」との言葉、重要ではありますが、分かりにくい言葉でもあります。聖書が語る終末は、この世界が神によって刷新される救済のことです。この待望の信仰が、あらゆる困難や迫害に耐えさせる力ととなり、またマンネリに陥ることなく瑞々しさを与えていくのです。

 「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と続くように、その待望の信仰は日々の生活へと向かわせます。このように終わりの時を知っている者は、まったき救いを待望することによって、現実の歩みが浮ついた気持ちではなく、むしろ冷静に地に足を着けた生活へと導かれていくのです。

 ここにはさらに大きく三つのことが勧められています。一つは愛し合うということです。「まず、心をこめて愛し合いなさい」とあります。わたしたちの愛は不安定で冷めやすいものですから、いつも身を慎んで祈っていなくてはなりません。愛が冷えるのは人の罪に出会ったときで、そのとき愛はたちまち怒りや憎しみに変わってしまいます。それに対し主イエスはそのような罪のままの人間を愛し、その罪を背負ってくださいました。人間の罪の覆いとなるのが、キリストの愛なのです。傷口は包帯で包まれている間に、癒されていきます。そのように愛は、罪という傷を覆い包むことによって癒すのです。  

 二つ目は「不平を言わずにもてなし合いなさい」です。ホスピタリティの精神です。かつて東京オリンピックが開催されたとき、その決め手となった一つに「おもてなし」がありました。そのもてなすということ、すなわちホスピタリティの必要性は、今でもさまざまな形で求められています。

 三つ目は賜物です。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。賜物をギリシア語でカリスマと言います。日本語でカリスマと言うと、超自然的な力、何かオーラがあって人々を引きつける人のような意味で用いられがちです。しかしこのカリスマ(賜物)はだれにでも与えられているものなのです。すべての人はカリスマ人間なのであり、それぞれその人だけの固有の賜物を神から授かっているのです。だからそれを土の中にしまって使わなかったり、反対に背伸びして自分のもっているもの以上のものを出そうと無理をしたりしないで、この神から与えられた恵みの善い管理者としてそれを有効に使うべきなのです。

 「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。わたしたちの罪や弱さという傷口を覆い包んで、癒してくださる、そのキリストの愛がわたしたちに与えられています。それゆえ自らも絶えず目覚めて祈りつつ、世の罪に流されてしまわないようにしなくてはなりません。愛することと互いに仕える・もてなし合う、そして「恵みの善い管理者」として神から与えられた尊い賜物を十分に生かして他の人々のために用いていきたいと願います。それこそが神の栄光をあらわすこととなるからです。(高橋牧師記)