戦うキリスト
「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変に
なっている』と言われていたからである」。 マルコ福音書3.20-30

「慰められることを願うのでなく、慰める者となりますように。理解されることでなく、理解することを、愛されることでなく、愛することを心から求める者となりますように」。これはフランチェスコの平和の祈りの一部です。しかしそうは言うものの、相手を理解することもそうですが、人から理解されることもなかなか大変です。
イエスの周りにはいつも多くの人々が集まっていました。けれどもその群衆がすべてイエスを理解していたというわけではありません。中には彼は気が狂っている、正気でないと考える者もいたのです。イエスの身内の者たちでさえ、そう思っていました。 信仰者として生きる、あるいは福音を伝えるとは、このような壁のもとでどのように理解されていくのか、その絶えざる戦いだといえます。使徒パウロも言われたことがあります。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」。これはフェストゥスというローマの総督の言葉です(使徒26.24)。実際に気が変になっているということではなく、相手には理解されない信仰の言葉ゆえ、いきおい頭おかしいという反応を生じさせたのでした。
理解されることの困難さ、それはエルサレムからやって来た律法学者たちも同じです。彼らは言いました。あの男は悪霊に取りつかれていると。ここでも律法学者たちは違った言い方ですが、イエスが正気でない、精神的に病んでいると言うのでした。神の恵みの福音を宣べ伝え、そのなかで悲しむ者を慰め、病める者を癒す宣教の業が、このように家族・親族から、また権威ある人々からも理解されることなく、狂人呼ばわりされていく。その延長にイエスの受難があり、十字架がありました。福音の真理にはそのような高い壁があり、それが人々のつまずきとなっていくのです。
それを使徒パウロはこのように述べています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』」。知恵ある者はどこにいるのか。学者はどこにいる。この世は自分の知恵で神を知ることができません。それがまさに神の知恵にかなったことなのです。神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたち信仰者にとっては、十字架につけられたキリストこそがすべてなのです。ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であれギリシア人であれ、その他誰であろうと、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストがすべてなのです。それが人よりも賢い神の愚かさであり、人よりも強い神の弱さです(一コリント1.18-25)。十字架の言葉は確かにつまずきとなりますが、それを通してこの世界に福音の真理を示しています。わたしたちは伝道がむずかしい、思うように教会が成長していかないと嘆くことはありますが、その先頭に立って今も戦っておられるキリストを見つめながら、その後をつき従っていきたいと心から願います。(高橋牧師記)

