捨てられた石

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。  ルカによる福音書20.9-19

 イエスは「ぶどう園と農夫」のたとえを語りながら当時の指導者を批判し、また自らの受難を暗示されました。旧約時代からどれだけ多くの預言者たちが迫害にあってきただろうか。そして今、神の独り子、すなわちイエスご自身が人々から排斥され、捨てられていく。それをこのたとえによって語られたのです。

 本来「敬われるべき方」であるにもかかわらず、拒絶され捨てられてしまう。それをイエスは詩編の言葉を用いて、次のように述べておられます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。「隅の親石」とはお城などに見られる土台の角の石に相当する非常に重要なものです。家を建てる建築家が要らないと捨ててしまった石、それが実は最も重要な石であったのです。

 イエスが示す国は、この「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という世界です。捨てられた石が重要な基礎の石となり、その上にまことの家が築き上げられていく。それはイエスの誕生からそうでした。宮殿でなく馬小屋から始まったように。さらには多くの人々に仕えられるのでなく、僕のように仕える働きの上に、またわずかレプトン銅貨2枚しか持っていない貧しき女の上に教会は建てられています。そのようにこの世ではつまらなく見えるところに信仰の家は建っているのであり、極みは権力者ピラトでなく、あざけりの中で十字架につけられたイエスの上にわたしたちの生涯は築かれているのです。  

 わたしはレコード盤でヘンデルの「メサイア」を今も時々聞いています。バッハの「マタイ受難曲」と一緒に、虎の子のように大切にしているものです。このオラトリオの中ほどに「苦難の僕」が出てきます。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」とソロで歌われ、続いて「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの悲しみであった」とコーラスが続きます。心にジーンと来るところです。それはイザヤ書53章の数節で、まさにこの受難の箇所と深く関係しています。

 捨てられるの反対は選ばれる、愛されることです。本来独り子イエスは神に選ばれた人でした。イエスが洗礼を受けて水から上がられたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が聞こえました。またモーセとエリヤと語る変貌のイエスにおいても、同様の声が天からありました。このようにイエスこそは神から選ばれた者、愛された者であって、決して捨てられた人ではありません。むしろ捨てられた者とは、この世界であり、当時の群衆であり、わたしたち自身です。絶えず神なしで生きようとし、神なしで生きることができると傲慢にも勘違いをし、そのようにして神のみ心から絶えず背いている人間、この世界です。人間こそ神の愛から離れている者であり、神の怒りと悲しみを負うている者であり、それゆえ捨てられた者なのです。ところがイエスの十字架においてその関係が逆転しました。すなわち神から選ばれていたイエスが捨てられ、まさにその捨てられることによって、神から捨てられていた者、この世界とわたしたちが選ばれた者となったからです。それが十字架で起きたのでした。イエスは人々からだけでなく、神からも見捨てられることによって(マルコ15.34)、実はわたしたちを選ばれたのでした。(高橋牧師記)