新しい人間
「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として
神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。 エフェソの信徒への手紙2.11-22

エフェソ教会(今のトルコ)には、ユダヤ人クリスチャンと他の民族出身のクリスチャンが共に信仰生活を送っていました。ところが同じクリスチャンであり、同じ教会員であったのですが、どのような民族、文化を背景にして信仰者になったかということにこだわりを持つ人々がいました。それはユダヤ人で、彼らには選民意識、あるいは先輩意識があり、それが人を見下したり、交わりに壁をつくっていたのではないかと思います。自分たちはアブラハムやモーセの子孫である、そうした長い信仰の歴史を担った契約の民であるという自負で、そのような意識が一致を妨げていたのです。他方、同じ教会員であっても、ユダヤ人以外から信仰に入った人々は、彼らのうぬぼれを嫌い、結果として互いに反目することになりました。
このような敵対心が横たわる教会に対し、使徒が語ったのが上記の言葉です。実にすばらしい言葉です。キリストは双方の間にあった敵意を滅ぼされただけではありません。さらに双方を和解させ、両者を用い一つの同じ働きへと召されたのです。18節以降にこうあります。「このキリストによってわたしたちの両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」。
敵は自然に生まれるものではありません。初めから自分の周りに存在しているわけでもありません。それを生じさせるのは敵意という心です。敵は自分以外の人を指しますが、その前にまず敵意があることを忘れてはなりません。そしてその敵意は相手の中にあるのではなく、自分の中にあるのです。わたしたちは相手のことばかり考え、それを問題としがちですが、そうではなくて自分の中にある敵意を問題にしなくてはなりません。あの人の性格が悪いから、あの人がいるから問題が起きるのだといった思いです。自分のことは棚上げにして。敵意とは自分しか認めない心であり、自分だけが正しいとする心から生まれます。そして相手を間違った者として非難します。
イエスはあなたの敵を滅ぼされたのではありません。あなたの敵を滅ぼすために信仰を与えられたわけでもありません。むしろ敵を愛しなさいとまで言われています。イエスは敵ではなく、敵意を滅ぼされたのです。御自身ひとりの僕としてひざまずき弟子の足を洗うことによって、互いに愛し合い、仕え合うことの大切さを教えられました。キリストは自らの十字架よって敵意を滅ぼされ、それによって一人の新しい人間を造り上げられました。だれでもキリストにあるならば、その人は新しい人なのです。わたしたちはもはや古い人間ではありません。人間同士、民族同士、さらには宗教間にあるような対立をすべて十字架につけてしまわれたのです。だからキリスト者として生きるということは、神と人との平和の中に生きることがゆるされた新しい人間として生きることなのです。(高橋牧師記)

