時は満ちた

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」   マルコ福音書1.14-20

 イエスの宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というものでした。長い旧約時代の準備を経て、今や時が満ちたのです。この満ちるとは、ちょうど風呂にお湯を張り、それがあふれ出すような状態を言います。あるいは雷が地上に放電されるに十分な状態ともいえます。
 
 この「時」に関して、ホスピスで有名なデーケンさんはこんなことを述べています。時には大きく二つある。その一つの時は物理的な時間で、人間が年を取れば少しずつなくなっていく時である(一日、一年…)。それに対してもう一つの時は、質的な時間、かけがいのない時間であり、それは神との関係から得られる時間だというのです。従ってこの時は年を取ればなくなっていく時間でもなければ、若いからたっぷりある時間というものでもありません。その質的な時間はいつでも用意されているのです。今イエスによって宣言された時、それは神によって定められた時であり、その時が今満ちたのでした。

この神が用意された恵みの時は、弟子の召命において示されます。4人の漁師がイエスによって招かれました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。それは単に声をかけられたということだけでなく、ある働きへと目的をもって招き入れられたものでした。 それを聞いた彼らはすぐに網を捨ててイエスに従いました。ぐずぐずしてはいません。これはイエスの直接の弟子だけがそうであるというのではなく、この招きの声を今日聞いた者すべてに必要な態度ではないでしょうか。そこで求められるものは自分の能力とか力などではありません。それは主の前には何ら問題とはならないからです。彼ら4人に共通するのは、この捨てることでした。取捨選択という言葉がありますように、人は何かを得ようとするならば、何かを捨てなくてはならなりません。何かを捨てて初めて別のものを得ることができるのです。

漁師たちは皆仕事中でした。網を打っているとき、網の手入れをしているという仕事のさなかでした。神のご用をするということ、また奉仕とかボランティアというものは、何か暇ができてからということではありません。わたしたちが自分の仕事をしている、何らかの務めに就いている、そのただ中においてイエスは神の国へと招いておられるのです。今もイエスはわたしたちの心の扉をたたいて呼んでおられます。

 4人の弟子たちは日常のごく普通の生活をしていたときに、声をかけられ、福音の恵みへと招かれました。ある人はそうした働くことさえできず、施設で生活をしていたり、入院を余儀なくされている人たちもいます。けれどもどのような場所、どのような境遇の中にあっても、人間が生きている、そこを神ご覧になり、まず神が声をかけてくださっているのです。「時は満ち、神の国は近づいた」。この質的な、かけがえのない時は誰にも与えられています。その呼びかけのもとで、わたしたちは神の招きにあずかり、悔い改めて福音を信じることにより、新しい命へと導き入れられていくのです。(高橋牧師記)