栄光そして苦難

    「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない。』彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」。 マタイによる福音書17.1-13

 イエスは弟子たちを連れて高い山に登られたとき、彼らが目にしたのは「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」変貌のイエスでした。さらにモーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていました。この2人は旧約時代を代表する人々です。モーセは律法の、エリヤは預言者の代表です。ユダヤの民があがめていたこの2人がイエスと一緒にいるということは、イエスが旧約の中心である律法と預言者を完成するために来られたということを証ししています。またモーセのような預言者が終わりのときに到来するという、もう一つは終末時にエリヤが再び出現するという期待がイエスにおいて実現することをあらわしてもいました。  

 あまりに神々しい光景を目の当たりにした弟子たちは、非常に恐れ、地にひれ伏しました。するとイエスは近づき、彼らに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない」。彼らが顔を上げて見ると、そこにはイエスのほかにはだれもいませんでした。つい今しがたの光景、すなわち輝く衣でモーセとエリヤと一緒におられたあの光景は消えていました。モーセとエリヤもそこにはいません。そして彼ら弟子たちに見えた光景はこれまでと何ら変わりない現実の風景でした。そこは山の中であり、草や木に覆われた所であり、石がゴロゴロしている場所です。これが現実の世界であり、いまだ勝利からほど遠い、栄光からはるかに離れている世界でもあります。この地上には今も戦争があり、不正義がはびこり、災害があり、その中で多くの命が失われています。わたしたち一人ひとりも罪のなかにあって迷いと不安と死にさらされています。それが今の現実の世界です。それでもわたしたちにとってその中で一つだけ、しかも大きく一つだけ違うことがあります。モーセやエリヤは確かにいませんでした。太陽のように輝く姿もありません。けれどもそこにはイエスだけはおられました。イエスだけが残って、手で触れ「起きなさい。恐れることはない」と言ってくださり、さらに一緒に山を下りて現実の世界へ赴いてくださったのです。

 モーセとエリヤと語り合う勝利のイエスは、同時にこの地上で今も苦悩する人々と共に歩むキリストでもあります。それは試練や苦悩の中にも神の恵みを見出し、また順調な中にもわたしたちの罪と重荷を背負ってくださる十字架のイエスの恵みを忘れないということでもあります。イエスはメシア(救い主)です。変貌の出来事がそれをあらわしています。しかしメシアは苦難の中を歩むことにおいて、僕として人々に仕えることにおいて救い主でした。天上のキリストだけではありません。反対に地上の受難のイエスだけでもありません。その両面がわたしたちの救い主イエス・キリストなのです。十字架の死は敗北でもなければ行き止まりでもなく、救い、勝利です。栄光の中で、イエスは栄光に包まれて死を語られました。信仰において栄光と死は矛盾せず、むしろイエスにおいて一つです。いと高き神がいと貧しき低き人となられた。だからわたしたちは栄光のキリストに苦難のキリストを見、十字架のイエスに栄光に輝くキリストを認めることができるのです。もう恐れる必要はありません。なぜなら主イエスがそばに、共にいてくださるからです。(高橋牧師記)