死の墓を越えて

    「十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。  マタイによる福音書28.1-10

 イエスが十字架につけられ墓に葬られて3日目のことでした。マリアという名の2人の女が墓へ行きました。ところが墓へ着いてみると、入口の大きな石がわきへ転がしてありました。そして主の天使がそこにいて言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。確かにそこには3日前に埋葬したイエスの遺体がありませんでした。墓の中は空だったのです。

 一般に一人の人物の生涯を辿る場合、たいてい死をもって終るものです。ここマタイ福音書でいえば、27章がそれにあたります。ところがイエスの生涯に関してだけは、死で閉じられるのではなく、その先がありました。讃美歌21(575番3節)に「いのちの終わりは、いのちの始め」とあります。普通は命から始まり、やがてその命は死をもって終わる。けれどもわたしたちの信仰の命は死から始まり命へと移っていく、そのような命なのです。  

 ユダヤの墓は横穴式で、入口は大きな石でふさがれていました。ちょうど頑丈な扉に鍵がかけられているような状態で墓がふさがれていたのです。言い換えればこちら側、すなわち命と、墓の内側の死を、重い石が隔てていたのです。その石がわきへ転がされていました。イエスにおいて、もはや死と生の分け隔てがなくなったのです。主の天使が言いました。「あの方は、ここにはおられない」。こことはどこでしょうか。それは遺体の置いてあった場所です。イエスは一度はそこに横たえられたにもかかわらず、もはやそこにはおられなかったのです。墓は人生最後の場所であり、その先は行き止まりであったにもかかわらず、そこにイエスを見出すことはできなかった。もはや行き止まりでも最後の場所でもなくなったのでした。

 今日、この喜びのイースターに1人の友が洗礼を受けます。このことは家族だけでなく、わたしたち仲間にとっても大きな喜びです。この洗礼について、パウロはまさに主イエスの復活から導かれてこのように述べています。「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ローマ6章)。

 「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。十字架を経て死からよみがえられた主キリストは、わたしたち信じる者に多くの力と希望をもたらしました。この世界は今も多くの矛盾と対立に満ちています。わたしたちの小さな生涯も恐れや思い煩いに支配されて、心が絶えず揺れ動きます。病や失敗があり、やがてだれもが死を迎えます。そうした不安定で限界ある生ではあっても、キリストの十字架と復活がわたしたちに新しい命を示してくださいました。わたしたちの罪がキリストの十字架と共に葬られることによって、まさにそこから新しい命、復活のキリストと結ばれて新しく生きることができるようになったからです。(高橋牧師記)