海の底に道を開く

    「主に贖われた人々は帰って来て 喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき 喜び楽しみを得 嘆きと悲しみは消え去る」。 イザヤ書51.4-11

 バビロン捕囚から解放されユダヤの民が帰還していく時代に活動した預言者、それがイザヤです。今からおおよそ2600年ほど前の紀元前587年、ユダヤの国は新バビロニア帝国によって滅ぼされ、主だった人々は遠くバビロンの地に連れ去られていきました。これが歴史的にいうバビロン捕囚です。

 イザヤは打ちひしがれた民に向かって言うのでした。「人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな」(7節)と。本当に恐れるべきは、人ではなく、人間の作った国でもなく、主なる神だからです。

 だから「奮い立て、奮い立て」(9節)と励まします。つらいときが続くと、どうしても疲れて自信をなくし下向きに歩みがちなのですが、主の救いが今臨んでいるのだから心を高く上げて歩みなさいと言うのです。「海を、大いなる淵の水を、干上がらせ、深い海の底に道を開いて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではなかったか」。これは自分たちの先祖がかつてエジプト脱出で体験した紅海を歩いて渡った奇跡のことを述べたものです。ユダヤの民は後ろから追ってきたエジプト軍、しかし前には海があって行き止まり、さあどうするか、万事休す。しかしまさにその時でした。海が分かたれ、彼らの前に道が開かれたのは。その政治的・社会的な解放は、また「贖い」というように信仰的にも捉えられています。そして今、再びバビロン捕囚から帰還する人々を指して、「贖われた人々」と呼びました。「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にはとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る(11節)。 

 アドベントを迎える者として歩む、それは主の到来を待ち望む者として歩むことです。すなわちイエスの誕生を待ち望むことから始まり、主の十字架の到来、復活の到来、そして「主よ、来りませ」という究極の到来でもあります。これらの時は、ちょうど遠くに見える山並みのようにたとえることができるかもしれません。たとえば遠くからアルプスなど中部山岳地帯を見ますと、雪をいただく山々が幾重にも重なって見えます。しかし実際山の中に入りますと、山と山との間が大変離れているものです。聖書の中に「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(二ペトロ3.8)とあるように千年と一日の関係も、このように受け止めることができるかもしれません。「主に贖われた人々は帰って来て、喜びの歌をうたいながらシオンに入る。頭にとこしえの喜びをいただき、喜びと楽しみを得、嘆きと悲しみは消え去る」。このように嘆きと悲しみが消え去り、喜びと楽しみを得て、歌をうたいつつバビロンを後にした人々の姿は、同時にクリスマスを待つ者の姿でもあり、また今礼拝へと集った者の姿とも重なります。そしてやがて主がすべてを完成される時の姿でもありましょう。わたしたちの目の前には様々な心配事があり、それは途切れることがありません。しかしアドベントの時を歩むのは、遥か以前の帰還の喜びの中を歩むことであり、さらには復活の希望に支えられる時でもあります。待降節はそのように幾つもの時の到来を、あたかも同じ時のごとく重ね合わせながら歩んでいくことでもあるのです。それが信仰者の姿です。(高橋牧師記)