涙はぬぐわれる

 「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」。   ヨハネ黙示録7.9-17

 主イエス・キリストは天にあって勝利者として神の右に座しておられる。他方、地上の教会、そこにつらなる信仰者は依然として完成にはほど遠い途上の教会として、さまざまな試練や悩みに直面していました。特にこのヨハネ黙示録が書かれた時代はローマ帝国による支配の時代で、皇帝礼拝やローマの宗教への強制という迫害がありました。そうしたなか、ヨハネは天から啓示された勝利のイエスを指し示しつつ、地上を旅する教会の人々に希望と忍耐を語るのでした。

 キリスト教の歴史を見ますと、ローマ帝国においてキリスト教が公認宗教となるまで多くの逆風に悩まされ続けてきました。もちろんその後も、それは現在に至っても教会は別の意味で逆風に直面してはいますが、特にこの時代は国家と対峙しなくてはならず、それゆえ命にかかわるほどの厳しい時代であったことは言うまでもありません。確かにヨハネの時代でも地域によって、また時代によって困難の差はありましたが、教会は、そしてそこに連なる信仰者はさまざまな苦難に耐えなくてはならなかったのです。

 過日、水曜日の「聖書に親しむ会」では、遠藤周作の「沈黙」が話題にのぼりました。踏み絵の時代、ああいうときもしわたしたちならどうするだろうか、そのようなことを話し合いました。それは信仰のことだけではありません。大きくは憲法でいう思想・良心の自由の問題でもあります。

 そうした苦難を経た信仰者たちはやがてキリストと共に勝利者となり、白い衣を身にまとうこととなりました。どうして白い衣なのか。それが次に述べられています。「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」。衣を血に浸せば、白くなるどころか赤くなってしまい、その色はなかなかおちません。ただここではそういうクリーニング店で行う洗濯のことを言っているのではありません。小羊とはキリストです。そのキリストの十字架によって流された血により、わたしたちの罪が洗い浄められたという意味での白ということなのです。つまりキリストによる罪の赦しという贖罪について述べたものであり、それゆえ赤から白になるのでした。

 そこで最後にヨハネはこう言いました。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」。そこにはもはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。わたしたちも同様ですが、この地上を旅する者には悲しみ、嘆き、苦労が絶えずつきまといます。涙もあります。しかしそうした数々の苦難に直面しながら、やがて訪れる主イエス・キリストによるまったき勝利・平安を指し示されながら、それを待ち望みながら希望をもって信仰者たちは耐え忍んできたのでした。そうした待望の信仰が、また現実の生活を変え、彼らの日々に力といやしを与えてきたのです。それがここヨハネ黙示録で語られているのです。玉座の中央におられる小羊がわたしたちの牧者となり、命の水の泉へ導き、目から涙をことごとくぬぐってくださるのです。(高橋牧師記)