涙はぬぐわれる
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」 ヨハネの黙示録7.9-17

あるとき、イエスの旅の疲れを覚えて井戸の傍で休んでいました。そこへ水を汲みに来た一人の女に、水を飲ませてくださいと頼みました。喉を潤すためです。この対話をきっかけに、イエスは究極的な飢え・渇きからの癒しを語りました。有名なシカルの井戸におけるサマリアの女とのやり取りです。イエスはこう言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4.14)。もはや飢えることも渇くこともない。一時的には癒されても、また渇き、また飢える肉体的・地上的なものではなく、罪の赦しと永遠の命による究極的な癒しをここで示されたのでした。
それは涙がぬぐわれることにおいても同様でした。「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」。ある小説家が、運命とはわれわれの行く手をいつも妨害する意志である、と言ったのを聞いたことがあります。どうして何もかも思い通りに行かないのだろうかと思わせる数々の出来事。実現する願いよりも、そうでないものがあまりにも多い。当然そこには多くの涙が流されます。それにもかかわらず信仰者は次のように言うことができるのを、わたしたちは覚えておきたいと思います。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」(詩編23.1-2)。主がわたしの牧者、羊飼いである限りにおいてです。他方、この世界はあたかも飼い主のいない羊のような群れです。いかなる偉大な為政者・リーダーであっても、だれも究極的に頼れるものがいません。羊飼いにはなれないのです。結局自分しか頼る者はいない?いや、その自分でさえ当てにならない、何と不安定な存在でしょうか。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21.3-4)。この地上を旅する者には悲しみ、嘆き、労苦が絶えずつきまといます。涙もあります。そうした数々の苦難に直面しながらも、やがて訪れる主イエス・キリストによるまったき勝利・平安が指し示され、それを待ち望むことによって希望が与えられ信仰者は耐え忍んできました。待望の信仰が、現実の生活を変え、自らの日々に力と癒しを与えてくれました。イエスは言われます。「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6.21)。旧約の信仰者も言います。「涙と共に種を撒く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行ったひとは 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(詩編126.5-6)。それは小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからなのです。(高橋牧師記)

