湖畔の町
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。 マタイによる福音書4.12-17

イエスはバプテスマのヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれました。そして湖畔の町カファルナウムに行きました。この町には漁港があり、最初の弟子ペトロとアンデレの故郷でもありました。イエスはここを拠点として、宣教活動を行っていくことになります。
「ゼンブンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」との預言の言葉がここで実現することになります。これは別の視点から見れば、ガリラヤはそのように見られていたということでもありました。「異邦人のガリラヤ」とあるように、そこは異邦人の地域と見られていたのです。それは同時に「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」でもありました。それは都エルサレムに住む者の偏見です。しかしそのように見られていた人々に救いの光が射し込んだのでした。光と暗闇の意味が逆転したのです。
それでは今日のガリラヤはどこでしょうか。「暗闇に住む人々」「死の陰の地に住む人々」とは誰なのか。ノーベル文学賞作家のアルベール・カミュに「ヨナ」という短編小説があります。一人の画家が、経済的にも家庭的にも恵まれ、仕事の上でも成功していたのに、生きる希望を失って、ついに倒れてしまいます。画家の残されたカンバスには小さな字が記されていたのですが、それが「ソリテール(孤独)と読むのか「ソリデール(連帯)」と読むのかはっきりしませんでした(フランス語でたった一字違うだけ)。人間が生きていくためには連帯(交わり)が必要なのか、孤独が必要なのか、そんなことを投げかけるストーリーです。
暗闇に住む人々、死の陰の地に住む人々、そこには孤独があるかもしれません。連帯・交わりを必要としている場所かもしれません。社会から偏見の目で見られている孤立した人々、神の祝福からもれていると思われていた人々。けれどもイエスの宣教はこうした小さな場所、小さな人々に向けられていました。イエスはそこに救いの光をあてられたのです。どのような小さな場所であっても、どのような人々であっても、福音を告げ知らせるのには何の妨げもありません。反対にそうした小さな人々にこそまず福音の光は臨むのでした。
宣教の第一声はこうです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。わたしたちの生涯は常に悔い改めであり、礼拝の中で、また聖餐式においても必ず問われているものです。神の前にへりくだり、自らを吟味することは、すぐに自分中心の肉なる思いが表に出やすい愚かなわたしたち人間にとっては非常に重要なことです。わたしたちの日々の生活は、いろいろな悩みや問題で満ちています。高齢化による健康の不安やまた孤独感、人間関係の悩み、その他一人ひとりには他人には言えないような悩みがあることでしょう。けれども主イエス・キリストの救いのしるしである神の国がほとんど実現したと同じくらいわたしたちに近づいていることを覚え、それに向かって、それを信じて歩み出すことは大切です。どんな暗闇であっても、たとえどのような死の陰の地と思われるようなつらい状況であっても、まさにそこにこそイエスの福音の光が射し込むのであり、生きる勇気と希望が与えられるからです。(高橋牧師記)

